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宗教二世がフランスで考えた中上健次と社会物語学のこと:路地=物語を読みなおす 2/3

(連載の続きになります。これまでの記事はこちら。)

うつほのうつろい

 中上健次の前期物語論は「コードとの闘い」を掲げて既存の音楽の枠組みを突き崩そうとするフリージャズへの共感とともに始まった。物語と音楽とを類比的に重ねあわせながら自分なりの創作論を試みた中上にとっては、両者はともに「うつほ」というがらんどうの穴から響いてくるものだった。アルバート・アイラーのサクソフォンも、セビリアの飲み屋で聴いたフラメンコギターも、かつてジプシーが暮らしたというスペインの山中の洞窟も、宇津保物語の舞台となる木の洞も、そこでかき鳴らされるペルシアの琴も、ひとしく物語=音楽が生まれでてくるうつほだった。中上は「うつほ」というマナ語に仲介されたそれらの穴の複層的な響きの編みものを織るようにして物語論を紡いでいこうとした。仮にこのようにまとめることが許されるのなら、後期物語論はレゲエの響きとともに始まると言うことができるかもしれない。
 中上は1984年に発表したエッセイのなかで「ボブ・マーリーの登場する前、私はジャズという一神教を信じていた」(Œ8)と打ち明ける。「コルトレーンやアイラーを、バッド・パウエルをベッシー・スミスを、一神教の聖書に登場する聖者にまつり上げ、まるで法王にでもなった[…]ように、ジャズはこうであり、かく在らねばならないとのたもうていたのである」。ところが、いつからかジャズへの信仰が揺らぎはじめる。そして、気づいたときにはレゲエへと宗旨替えをしていた。中上は1977年の3月から12月にかけて連載された『紀州』のための取材旅行のときにはすでに車内でボブ・マーリーをかけるようになっていたようだ。『紀州』には次のくだりがある。

夏の暑さがまだ残っている。カーステレオに、カリブ海ジャマイカの音楽だというレゲエをかける。レゲエの音を車いっぱいに響かせ、矢ノ川峠を出来る限りのスピードを出して車で走る。峠とレゲエ、不思議な取り合わせではあるが、日本的自然に満たされた峠というここと彼方を繫ぐ霊異の場所と言うにはあまりに大きな峠である矢ノ川に、そのカリブで生まれた音楽は似合う。歌っている歌手が白色でも黄色でもなく褐色の肌を持った若い青年だということは、ここでは、救いである。カーブが幾つもある。(Œ7)

 薬物でも併用していたのか、中上はその後、速度超過のあまりに交通事故を起こして車を大破させてもいる。残暑の季節ということはアルバム「エクソダス」でもかけていたのだろうか。ジャマイカからイギリスに亡命したボブ・マーリーが「エクソダス」を発表したのが1977年6月のことだったから、すでに中上が手に入れていたことも十分に考えられる。あるいは、その前年にリリースされていた「ラスタマン・ヴァイブレーション」あたりでも流していたのかもしれない。
 ボブ・マーリーの享年は三六歳。1981年に皮膚癌で亡くなった。親指にできた悪性の腫瘍が全身に転移したと言われている。癌の最初の兆候は「エクソダス」発表の年にはすでにあらわれていた。癌に冒された親指の切断を医者からすすめられていたものの、ボブ・マーリーはそれを断って活動を続けた。当時の中上は当然、そんな事情を知る由もなかった。しかし、信者としては奇跡的なことに、ボブ・マーリーと直接会って話す機会に恵まれた。死の二年前のことだった。中上は「亡命」と称して1979年9月に渡米し、それからの数ヶ月を西海岸で過ごしたが、ちょうどその年の11月から12月にかけてボブ・マーリーはサン・フランシスコで二度の公演を行うことになった。信者としては願ってもいないチャンスだったのだろう。中上はそのタイミングで取材を申しこみ、郊外のモーテルでの面会を取りつけたのだった。
 中上はそこで自身の物語論を読みなおしてゆく上での重要なヒントをいくつか得ることになる。そのうちのひとつが「交通」に関するものだった。

レゲエのボブマリー公演をきいた時だったろうか、突然、〈交通〉こそが今を解く鍵である事だと改めて気づいたのを覚えている。(Œ14)

 わざわざ山括弧を使っているのは、それがある種のコンセプトであることを示すためだろう。中上は渡米のすこし前から「物語に敵対するに〈交通〉が有効な武器になりうる」(Œ8)という認識を持つようになっていた。その背景には柄谷行人の影響がある。柄谷はアメリカからの帰国後に「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」を書きついだが、その延長として「交通について」という論考を発表し、それ以来「交通」という考え方をキーコンセプトとして使うようになった(そして、それをやがて「交換様式」と読みかえるようになる)。柄谷自身は、中上の「亡命」の直前に行われた対談のなかで次のように語っている。

ぼくは最近、「交通について」という小林秀雄論を書いた。君はよくわかっているけれども、交通 Verkehr という概念は、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』で、分業という概念とともによく使ったもので、交換、交易、コミュニケーション、生産関係、戦争といった広い意味を持っている。英語で言えば、インターコースだから、性交も交通なんだよね。どうしてマルクスが、交通とか分業とかいった概念を必要としたか。それがどんな意義を持つか。今ここで君に説明する必要もない。ただ、君もぼくも交通という言葉をこのところ頻繁に使うので、困っている人たちがいる(笑)。だから、簡単に言うと、歴史には「目的」も「意味」もない。「必然」も「中心」もない。それらは、いつも後から意味づけられたイデオロギー・形而上学だということ[…]。(Œ21)

 柄谷によれば、交通という考え方は「『歴史の意味』を排除する。[…]中心を退けるのではなく、中心のたえまない移動、中心そのものの偶然性を意味する」(柄谷 1996)。これは小説をはじめとするテキストの形をとった物語とは対照的な考え方である。というのも、そのような意味での物語ストーリーは基本的に、論理的かつ時間的な前後関係を伴う変化を描き、ふりかえったときにそれがあたかも必然であるかのようなひとつの全体性を提示しようとする。ある種の慣性とともに、なんらかの意味や方向性へと収束してゆこうとする。中上はそれを偶発的に突き動かすような出来事のことを柄谷にならって「交通」と呼び、そこに創作の新たな道筋を見出そうとした。
 中上にとっての交通は、なにより実際に動きまわってみるということでもあった。即物的な意味で世界中を動きまわるということが、作家としての中上の主要な仕事であったとさえ言える。そのような意味での交通の実践は、路地なきあとの世界を描いた『地の果て 至上の時』が書かれた状況にもあらわれている。中上はアメリカへの「亡命」の失敗した翌年にあたる1981年にはソウルに半年ほど滞在したが、『地の果て 至上の時』はそこで起筆された。そして、なによりもまず朝鮮語に翻訳された連載長編小説として韓国の文芸誌に発表された。結局のところ連載は打ち切りとなり、それから二年がかりの書き下ろしの形になったものの、そのさなかにあたる1982年には「爆走! 1万3千キロ——インド発ロンドン行き直行バス」というTVドキュメンタリーに参加し、ユーラシア大陸を走る「マジックバス」での三週間の旅を続け、その後アイルランドにまで足をのばしてもいる。さらに1983年には客員研究員としてアイオワ大学に招かれたが、書き下ろしが終わったのはキャンパス内の宿舎でのことだった。
 中上ははじめ、ある種の遊牧的なビジョンとともに交通のモチーフを展開しようとしていた。『地の果て 至上の時』においては「家と家が腹をこすれ合わせるように立ち、幾つも迷路のように細い道が錯綜していた路地が忽然と消えた後に現われた草の原っぱ」(Œ1)が幻視され「秋幸にもかつて遠い昔、ジンギスカンとして果てしなく続く草原を馬で走っていた記憶をよみがえらせる」。やがて秋幸が忽然と姿を消したかと思うと、路地跡の草地が突発的に燃えあがる。腹をこすれ合わせるように立っていたはずの木造の家々を燃料とするわけでもなく、この世ならぬ霊異のように火が立ち、重力が生まれ、ヤジ馬たちを引きよせながら彼らが荒く息巻くのにいっそう煽られるようにして昂ってゆく。それはこれから新しい世界を切り開いてゆこうとする中上自身の意志表明でもあったのかもしれない。
 中上が『地の果て 至上の時』を発表してから間もなくして、作品を目にとめた批評家の浅田彰からの手紙が届く。いわく「ドゥルーズと全く同じことを書いている。ドゥルーズは魅力あること書いている、それと全く同じことを書いているからびっくりしたんだ」(Œ16)。中上はそう言われ、ドゥルーズのいう遊動論ノマドロジーに関心を持つようになった。中上は後に「彼が言っているドゥルーズは、その辺りのホカホカ弁当というか、これがうまいと提示しているドゥルーズみたいになるんだけど、ひとつも面白くない」(Œ16)などという恩知らずな物言いで浅田を腐すようにもなるが、いずれにしても浅田を介して知ったドゥルーズの議論に大きな示唆を受けたのは間違いない。とりわけ「リゾーム」という考え方が交通をめぐる連想の輪にひとつの筋道をつけることになった。
 ドゥルーズはピエール=フェリックス・ガタリとの共著として『リゾーム』を1976年に出版していた。そして、それが早くも翌年には「エピステーメー」という思想雑誌の臨時増刊号という形で日本語に翻訳出版された。当時はほんの一部の人間の興味しか引いていなかったはずだけれど、おそらくは浅田彰が『構造と力』を発表した1983年ごろから広く知られるようになったようだ。ドゥルーズ=ガタリは、たとえば次のように述べている。

遊牧民について語るときでさえ、私たちはいつも定住者の側から、国家という中央集権的な装置の名のもとで歴史や物語を書いてきた。そんな私たちに欠けているのは歴史や物語の対義語、すなわち遊動論ノマドロジーである。[…]遊牧民たちは[リゾームという]反体制的な「兵器」を手中にしている。一度として歴史や物語が遊動を捉えたことがあっただろうか。一度として書物というものがその外部を捉えたことがあっただろうか。歴史の長きにわたって国家体制は書物や思考のモデルとなってきた。[…]それに対して、遊牧民の「兵器」は、別の新たなモデルというより、あらゆるものの組みあわせとして外部と関わる。組みあわせのあり方が、思考それ自体をうつろわせる。本をいたるところで作動する機械群の部品とし、リゾームの芽とする。(Deleuze 1980、拙訳)

 仏語の「rhizome」というのはもともと「地下茎」や「根茎」を意味する植物学の言葉であるらしい。タマネギやジャガイモといったものも地下茎の一種だ。ドゥルーズ=ガタリはこの地下茎のイメージを「脱中心化されたシステム」のモデルとして用いた。

樹木や木の根とちがい、リゾームは任意の点と別の一点とつなぐ。そのとき同じ属性のものが結びつけられる必要はないので、まったく異質な記号体系や記号でさえないものが一緒くたにされる。[…]リゾームには始まりも終わりもない。つねに中心にある。ものの間のうつろい。間奏曲。樹木を親戚関係という垂直の血統にたとえるなら、リゾームには姻戚関係という水平のつながりしかない。樹木は「(AはB)である」という動詞を要求するが、リゾームには「AもBもCも……」という連なりしかない。(Deleuze 1976、拙訳)

 このような地下茎の特徴は、中上の言説のあり方にも当てはまるものだ。中上はつねづね、無節操に連想の輪を拡げようとしてきた。つまり、次元や属性といったものの見境なく雑多なものを結びつけ、マテリアル=セミオティックで一元的なネットワークを紡いできた。あらゆるパワーワードが「=」によって短絡させられるなかでとりとめがなくなり、その結果、何が言いたいのかがわからなくなる。樹木のように地に足のついた形で話が掘り下がってゆかず、いつまでも空虚に横滑りしてゆく。AはBである、という結論に行きつかない。論としては、終わっている。あるいはもっと広く、世界の不透明性を取り除くためになにかを説明するための「情報」としては、使い物にならない。しかし、それも物語のあり方のひとつであるようだ。
 中上は交通やリゾームといったイメージに導かれながらそのことを自覚してゆく。前期の物語論においては、うつほ=路地はどちらかといえば、世界の起源や故郷のような場所として捉えられていた。命の生まれ出てくる暗い亀裂。微細に震える穴にも似た何か。太陽の出入りする日の本としての洞窟。木の洞。そんな無数の穴が連想によって複層的に重ねあわさりながら、ある種のシンフォニーを奏でる。それに対して、後期の物語論においては、穴という穴がそれ自体で積極的に動きはじめ、入りくんだ路地のように脱中心化されたネットワークを形成してゆく。音が和声として重なりあうというよりも偶発的に連鎖してゆく。中上はそれを「ポリフォニー」とも呼んだ。
 中上はそのような特殊な意味でのポリフォニックなあり方を体現した音楽グループを偶然韓国で見出した。1981年にソウルで暮らしていたころ、ボブ・マーリーが癌で死んだという報に触れ、信者としては言語に絶する衝撃を受けた。まさにちょうどそのころ出会ったのが、サムルノリという打楽器のグループだった。結成直後で目立った活動もしていなかったようだが、縁あって稽古を見学する機会を得た。そこではじめて演奏に接したときからサムルノリの信者になっていた。中上は1984年に発表したエッセイのなかで、次のようにふりかえっている。

ボブ・マーリーとそっくり同じ事を私に言うミュージシャンを韓国で見つけた。金徳洙。韓国のパーカッショングループ「サムルノリ」のリーダーである。[…]韓国の伝統的な打楽器、チャング、プク、ケンガリ、チムの四つの打楽器を四物(サムル)と言い、遊戯とも遊撃とも書いてノリと読む事から類推出来るとおり、「サムルノリ」の基本の精神は、ボブ・マーリーより一層強く個人の匂いを打ち消した徹底した楽器のフェティシズムだと言った方がよい。[…]「サムルノリ」の画期的なところは、四つの韓国の伝統打楽器が四つそれぞれ、四つの方向に向かって収斂されていく事である。のっけから、四つが四つ共に鳴り、互いの音のヴァイブレイションに呼応しあって集まり離れる。メロディのないリズムだけの打楽器だから、「サムルノリ」の音は、メロディのポリフォニーではなく、物が震動して音となって耳にとらえられ聴こえなくなって消えるというヴァイブレイションが露出した音のポリフォニーである。ヴァイブレイションのポリフォニーとは、音のあらゆる局面、高周波でも低周波でもポリフォニーを形成しているという事である。(Œ8)

 中上=ボブ・マーリーのいう「ヴァイブレイション」については次節で詳述する。ここではさしあたり、ものが響きあうということが、ものが離合集散するための呼び水になっている、という中上の発想に着目したい。中上はサムルノリのことを「まったくの偶然、恣意によって、リゾームを形成したらまたほぐれ、またリゾーム化する打楽器の音の複合連鎖」(Œ8)とも形容しているが、偶発的な連鎖が起きるためにはまず、ものが響きあい、呼応しなければならない。そして、ものが響くということは、輪郭がぶれて、ある種の同一性が揺らぐということ、ある種の匿名性を帯びてゆくということでもある。
 このことは「うつろい」という和語の豊かな語感にも示されている。うつろいは、移ろいにも、映ろいにも、憑ろいにも、虚ろいにもなる。単に任意の点から別の点へと「移る」だけではなく、別の平面に「映る(写る)」こともあれば、別のものへと「乗り憑る(感染る)」こと、まったく別のものに変異することもある。それはみずから同一性を持たない「虚ろ」な状態でさまざまなものの受けいれる「うつわ」となり「うつほ」として共振するからこそ可能になる。
 このようなうつろいのネットワークを形成する「脱中心化されたシステム」への関心を強める中上にとっては、その典型となるものが路地だった。あるいは、物語でもあった。「物語は歪む。物語は変形する」(Œ8)。物語は「ワープ」(Œ16)する。すなわち、時空のねじれを起こして脈絡を超えた何かに突発的に接続される。ようするに、うつほはうつろう。中上はそのようなモチーフをもとにして『日輪の翼』(Œ6)という長編小説にも取り組んでいる。
 路地の若衆たちがオバたちを電飾で煌々と彩られた冷凍トレーラーの荷台に乗せ、出エジプトを彷彿とさせるような流浪の旅に打って出るという趣旨の小説である。1984年に八ヶ岳にある柄谷行人の別荘を借りこんで書いたものだが、もしかすると1982年にニューデリーとロンドンとを結ぶマジックバスに揺られているときには着想を得ていたのかもしれない。あるいは、物語の伝統においては高貴な姫君がうつぼ船(虚船)に乗って流されてくるという定型があるとする折口信夫の議論を踏まえてのことかもしれない。
 中上は『日輪の翼』の出版から間もなくして「現代小説の方法」(Œ16)という計四回の講演を開き、交通というコンセプトを手がかりみずからの創作を通して考えてきたことを物語論の枠組みにおいて読みなおそうとする。
 前期物語論の連続講演「開かれた豊かな文学」のときには「うつほからのひびき」としてフラメンコギターの演奏に耳を傾けることから話を起こしたが、「現代小説の方法」ではパキスタンの民謡を話の枕として流した。つい数日前までペシャーワルのあたりに暮らすアフガン難民を取材するために旅行していたのだという。中上はそこで交通という営みの歴史的な変遷について想像力を働かせる。とりわけ車という移動の媒体メディアについて考える。
 中上には旅行中に驚かされたことがあった。それは、車が異様に装飾されているということだった。インドからパキスタンに入ったとたんに車という車が全部「ギンギン」に輝きはじめる。日本のデコトラとは比にならないレベルの装飾。あらゆる花鳥風月の絵や文字といったもので無茶苦茶に飾りつけられている。雰囲気としては、日光東照宮の絢爛さに近い。なぜそんなことになるのだろう、と中上は考える。

昔の人は、アフガニスタンとか、そういう所では、砂漠があったらオアシスがあって、繫ぐ道があって、馬車が走っていたりする。今われわれが車というと、あらゆる所を動いている、基本的にはある所からある所へのトランスファーというのが、あの連中の車だった。つまりある地点からある地点は異界を通るから、そんなふうな意識で車は考えられていた。だから車に乗った途端に、普通の日常の人間が異界の人間になっちゃうんじゃないか、だから運ちゃんなんかもギンギンになって[しまうんじゃないか]。[…]そうすると、こういう考え方のほうが、小説の原型みたいに、小説の中で使う車に近いんじゃないか。[…]異界から異界を、ある地点からある地点をトランスファーする。つまり異界を飛ぶ、空飛ぶ絨毯みたいなものだと、それが変化したようなものが車なんだと。そう考えたほうが、われわれの小説の中で考えるときも、応用が利くんじゃないか。(Œ16)

 中上は実際に吉行淳之介の『夕暮れまで』において自動車というものが有効な小道具としてどのように使われているかを分析してみせ、次のような説を唱える。「車というのは宙に吊された場所」であり、それゆえ「あらゆる場所に侵入していける。[…]脈絡なしにぽんと飛んでいける」。それと同時に「あるものを宙吊りにして、あるものを未熟な状態でもそれを許してしまうような神聖な空間[…]、声が一方向じゃなくてある別な方向がぶつかり、違うものがぶつかり、それがさらに融合したり分離したり、ポリフォニックなことを許してくれる場所」でもある。つまり、車は、空間をさまようものであると同時に、ものがさまよう空間でもある。この議論は、数ヶ月前に発表されていた『日輪の翼』への解説にもなっているのだろう。うつろううつほ。移動する神話空間として各地に神出鬼没する冷凍トレーラー。そんなモチーフをめぐって、中上は次のように語ってもいた。

移動する路地としてのトレーラーはさまざまなイメージの変化をします。[…]走っている時は男根状であり、停まり、ドアを開けると、女陰状になります。トレーラーは両性具有であり、山と山をつないだ高速道路は「神道集」などの示す古代の天の道、日本のもう一つの信仰体系を言う道筋であり、つまりそれは男と女というジェンダーの境界との戯れでもあるわけです。(Derrida 1987)

 こうしたトリックスターの性質を備えた場所は、ミシェル・フーコーの言葉を借りれば、ある種の「異相郷ヘテロトピア」と考えられる。「現実にない場所」を意味する理想郷ユートピアと違い、異相郷は現実に存在しながら他のあらゆる場所やものをうつしだす鏡のような場所である。時空を超え、文脈を越えて、あらゆる場所やものをひとつの小宇宙として十把一絡げに混在させる。呉越同舟させる。船こそ異相郷の典型だとフーコーも言っている。

船は、空間のうつろう切れ端であり、非在の場所である。自己充足してみずからのうちに閉ざされながらも大海原にゆだねられている。港から港へ彼方此方を渡り、娼館も渡り、植民地にまで行っては、そこに包み隠された宝物を見出してくる。だからこそ私たちの文化圏においては、十六世紀から今日にいたるまで、船はもっとも重要な経済発展の手立てだったばかりか、もっとも重要な想像力の貯蔵庫でもあった。(Foucault 1984)

 中上自身は「異界」というキーワードを通して同様の議論を展開している。1984年6月に「異界にて」(Œ8)というエッセイが発表されているが、冒頭から路地について長々と語られているので、はじめのうちは路地という異界で書かれたエッセイのようにしか思えない。しかしやがてそれがペシャーワルの地でいままさに書かれていることが唐突に明かされ、話が脈絡もなくペシャーワルにうつる。そして、しめくくりには「ここ[ペシャーワル]が腐臭を発しつづけるあの路地である事は疑いない」と連想の輪が結ばれる。そんなエッセイのなかに、次のくだりがある。

異界は存在の中の非在、在って無いもの、物と物のズレの間に蜃気楼のように現われるもので、一つ結界のようにあった山が壊れたり、一つ道が新たにつけ加えられた事で、異界はふっと姿を消す。[…]他界あるいは異界についての認識は古来からさして特別の事ではない。むしろ、それはわれわれの日常にあふれていたものだし、少しばかり気をつければこれもそう、あれもその符丁と指摘できる類のものである。いや、その符丁そのものが異界、他界の入口であり、そのものでもある。たとえばその補陀落渡海。高僧がわずかばかりの飲食に供する物を持ち、密閉した船に乗り、補陀落なる仏の浄土をめざして熊野の浜から船出するという補陀落なる浄土がことさらな他界なのでなく、ここで用いられている全ての物、海、船、闇がすでにそれだけで他界であり、他界の入口なのである。(Œ8)

 地勢に関していえば、日本列島においては海だけでなく、山や川がごく身近なものとしてあり、それがこの世とあの世とを隔てる境界としてそこかしこで物語論的な役割を担っている。新宮を二分していた臥龍山もそのような境界であり、春日はその裏手にある異界だった。

路地が他の村落共同体と違い路地それ自体で宇宙モデルを持ち、国家モデルを持つのは、排除され強いられて山の裏側に行ったというその点にある。半島から渡来して転戦を繰り返した天孫族の神話をなぞるように、である。排除され強いられて、それが内であり外である、と路地の人間にこびりついた一瞬の空間移動能力をつくる。これは天孫族の神話、もっと具体的に言えば、『古事記』や『日本書紀』の神人の記述を追っていて味わう一瞬の眩暈に似ている。そうだ、彼らは空間移動の超能力がある故に、神人でもあるのだ。[…]日本という鏡にうつった文化の差異として熊野があり、熊野の差異として山に囲まれた蓮池跡の路地があったが、路地はそこから、極小であっても千年王国として、熊野と拮抗し、日本と拮抗したのである。山を壊し蓮池跡を壊してみるという事は、空間移動の場が壊れ、濃密で重層した時間が破れ、一気に、これも化石化した現在の僻地の資本交通の中に繰り込まれたのである。(Œ8)

 路地は山の裏手に隠されていたがゆえに、巨大な「資本交通」の流れ、資本の自己増殖という明確な方向性を持った濁流に呑まれずにいた。「ダイダロスの迷路のような路地、語の正確な意味での路地、つまり交通のネットワークの道路が直に居住空間になったところ」(Œ8)という言い回しにもよく示されているように、路地は資本の通り道ではなかった。商品を積載したトレーラーが絶えず行き来する人工的な大通りではなく、人が寄せ集まることによって創発的にできあがった小道の錯綜だった。
 中上の議論の要点は、そのような異界が日常から隔絶されてあるということではなく、つねに内と外との境界線を侵食する力、クラインの壺のように内と外とを反転させるような循環の力としてあるというところにある。同時期の柄谷(1982)の議論を借りれば「『境界』は、私の考えでは、両儀的な場所であるというより、そこで(図/地や内/外といった)反転が生じざるをえないような或る『空虚』なのである。それは『空虚』であるがゆえに実態的に明示することはできない」。中上はそのようにうつろう場のことを「ゾーン」のイメージを通して説明する。1986年12月に柄谷、浅田、蓮實にともなわれてパリに赴き、ジャック・デリダと「周縁と伝統(Marginalité et tradition)」と題した対談を行なった折にも、周縁をゾーン上に描きだしている。たとえば、熊野という辺境を一例として、次のように言う。

熊野というのは変なところなんですね。熊野という名前からして変なんです。というのは、日本語をわかってもらわなきゃしようがないんだけども、クマノというのは隅っこの野原という意味なんです。隅っこというのは要するに土地のないところ、何かの端ですよね。その土地のないところに野原がくっつくんです。ないところにある、という意味としましょうか。視えないがある、という意味にしましょうか。だから、相矛盾している土地、場所、それが熊野なんです。ということは、さっき内・外、あるいは内部・外部ということがあったんだけども、内部と外部がくっついて、内部でもあり外部でもある、そういう場所が熊野なんです。たえず循環するもの、だから区切りがつかなくて、線的にはでなくて帯状にゾーンとしてあってしまう場所。(Derrida 1987)

 このようなモデルに対して、デリダとしては素朴な疑問を感じるところもあったようだ。さらに言えば、妙な対抗意識を寄せてくる中上自身への不信感のようなものもあったのだろう。デリダは討論のなかで中上への問題提起をしているので、それに応える形で中上が展開した議論を見ておこう。
 ちなみに、両者にはそれなりの面識があった。はじめに柄谷行人がポール・ド・マンを通してジャックデリダとの知己を得ていたのだけれど、そのド・マンの没年にあたる1983年にデリダが初来日したとき、中上はデリダとの対談をしている(しかし、なんらかの理由によって途中で打ち切りとなり、活字にされることはなかった)。さらに1986年1月に中上がコロンビア大学に客員研究員として招かれたときにもキャンパスで出くわしたことがあったという。ただ、中上が「ディコンストラクションとかって言われて、すごい偉い思想家に見えるんですけど、会って話しても全然つまんない」(Œ21)とデリダを腐していることからも透けて見えるように、話の弾む仲ではなかったようだ。デリダ自身は中上の作品を読んだことはなかったものの、本人や柄谷の口から熱っぽい口ぶりで話には聞かされていたのだろう。そこで、パリでの対談の折に次のような疑問を投げかけたのだった。

作品そのものについては何も申し上げられませんが、中上当人による自作の解説とそれを正当化する言辞を聞いていると、その中に一つのイデオロギー的図式が隠されているように思えたのです。[…]「われわれ熊野の人間は、部落の住人として、不可触賎民として差別されもし疎外もされている。しかし度重なる抑圧や排除や周縁化を誤りくぐり抜けた未、われわれは、結局のところ、ひとつの伝統を担っているのだ。われわは、他所では失われ、稀薄になり、また混濁してしまった伝統を我が身ひとつでる人間なのである」、というのがその図式です。[…]こうした権利請求の裏には、周縁性をいわばイデオロギーとして回収しようとする動きが実は潜んでいるのではないかと疑ってみたのでした。(ibid.)

 デリダの問題提起は「周縁と伝統」という対談のテーマにも適っている。また1985年に「中上にとっての伝統」という趣旨でフランスの文芸誌の記者からの取材を受けた中上が「僕は日本の最も伝統的な作家と見なされていて、来日したデリダが西洋の影響からは無縁な作家に会いたいという所望をしたときも、僕の名が挙げられることになったわけです」と語っていたことに照らしても、もっともな指摘である。さらに、前期物語論において中上が差別=物語を日本文化の粋と読みかえ、自身を日本文化の本流に位置づけようとしていたことを思い起こしてみても、デリダの直感は鋭いと言わざるをえない。中上の思惑が働いたのか、対談が日本の読者むけに活字化された際には、題が「穢れということ」と改められ、論点がずらされているが、中上はたしかに周縁的なものこそが伝統的なものであるという主張を繰りかえしてきた。
 しかし、後期物語論における中上はドゥルーズの議論に触発される形で考え方の変更を迫られていた。物語の系譜という日本文化の伝統を担う保守本流として自身の立ち位置を定めることへの限界も感じていたのだろう。結局のところ、系譜というものはリゾームではなく樹木の形をしている。闇を求めて伸びる木の根であれ、光を求めて伸びる木の枝であれ、それを辿りなおすと種という起源に行き着き、中心と周縁という二分法に還元される。浅田彰も同席する手前、中上としては、その図式を拒否しておきたかった。
 そこで、中上は松坂牛の霜降り肉のイメージを持ち出し、それを手がかりにして連想の輪を広げようとする。中上いわく、松坂牛といえば、日本文化の粋といっていいほどの美味なのだけれど、それはある種の病的な美味さなのだという。子牛のときから並々ならない情熱をかけてビールを飲ませ、ストレスがたまらないように毛をブラッシングしてなめるように可愛がる。そういうおぞましいところが日本文化の核心にはある。ジャポニスムとして地球の裏側でもてはやされた日の丸の表面的な輝きは結局のところ菊の御門という肛門状の穴にも通じており、そこにはどろどろとした闇の世界が広がっている。松坂牛はそんな二重性の体現者でもある。しかしそれは光と闇の両面性の象徴ということではなくて、光と闇がまさに霜降り肉という渾然一体となったモノの形で体現されているということだ。そんな松坂牛に助けられながら、中上はリゾーム的なモチーフをふくらませる。

僕はそれこそ[『日輪の翼』という]霜降りの松阪牛のような小説を既に書いてしまってましてね。[…]天皇とアウト・カースト、要するに部落 民がほとんど背中合わせにくっついている、という意図のもとに書かれた小説ですが、何が中心なのか、何が周縁なのか判別困難なのだ、という私の考えが込められてあります。[…]私は聖なるもの、賤なるものを、まさに松阪牛の霜降り肉状にとらえているのですが、デリダさんの問は、どうやらツリー状に考えられておるから、出てくるのではないか。あるい は簡単な図形に還元してしまっているのではないか、という事です。つまり、そういう病み方なんじゃないかと僕は思うんです。(ibid.)

 健康的な二分法によっては、中心と周縁が霜降り肉上に溶けあうような病状を分析することはできない。しかし、松坂牛の話をするなら、とデリダは水をさす。フランスにもフォアグラという対抗馬がいる。ガチョウが無理やり餌を食わされて過度に肥大しているという点、不健康ゆえの珍味であるという点では、松坂牛と変わりないのでは? そうデリダに問われたのに助けられる形で、中上はさらに松坂牛語りを続ける。

フォアグラと松阪牛の違いというのは、こういうことなんです。フォアグラの場合は肝臓ですよね。肝臓という存在や機能を考えてみれば、あるものを排除するという思想が出てくるんですよ。これはまたフォアグラ、つまりフランスいやヨーロッパにあまた存在する思想だと考えていけば非常に怖いことだと思うんです。つまり、毒を排除する、解毒してしまう。アブジェクション、要するに汚いもの、けがれたものをいつも排除しようとするものが出てくる可能性がある。ただあのフォアグラそのものは、排除、解毒を強制されつづけ肥大化し、痛み、疲弊して再生不能の一歩手前の痛々しい美味しさですね。松阪牛の場合は、それ自体が毒なんですね。霜降りの脂肪の中に何が入っているか分ったもんじゃない。もう脂肪と肉がぐじゃぐじゃになっちゃってるんだから。だから、共に美味であることは確かですが、中心と周縁という単色に還元できないところがあるんです。単色じゃないんです。肝臓の細胞だけですと、肝臓はさっきデリダさんの言われた幾つかの周縁の機能をさせられてしまいますが。ところが、肉と脂が健康、不健康がグジャグジャになってるんですからね。(ibid.)

 中上の頭の片隅には、このような霜降り的状況の典型となるものがあった。観念的にはそれこそが路地であり、物理的にはその一例として春日部落があった。自然の防壁でもあった臥龍山が切り崩される以前には、春日部落は城下町の「外」に退けられていた。ところが、産業資本主義の時代がはじまり、部落のすぐそばに駅が立ち、木材輸送のための切り通しの道がついたことで状況が変わってゆく。フランスのような国ではたいてい駅のある場所はあくまでも町の周縁にとどまりつづけているのに対して、日本においては駅を中心にして町が発展した。新宮の場合、駅ができたころからそのそばに繁華街が姿をあらわしはじめたが、まさにそれゆえに臥龍山が市を二分する障害と考えられるようになった。その結果、戦後になって臥龍山が崩され、その跡地に中央通りが引かれ、大型スーパーと新市庁舎が建てられた。そして、春日部落はスーパーと市庁舎、駅の三者にとりかこまれる形で、街の中枢に位置することになった。このような経緯を踏まえて、中上はデリダに「被差別部落は霜降り肉の脂肪のように中に入り込んでしまいました」と語る。
 春日部落の側から見れば、資本の巨大な力が外から押し寄せてきてそれがすべてを地ならししていったようにも見える。その一方で、町の側から見れば、部落という異質なものが外から闖入してきたようにも見える。中上はこのように複数の立場における中と外が絡みあうような状況のことを交通の場としての路地と呼んだ。前期物語論においては、どちらかといえば路地の周縁性に重点が置かれており、その点において被差別部落の言いかえとしても機能していた。しかしここでは視野がすこし広がり、周縁の内部と外部の織りこんだ交通網として理解されている。つまり、うつほの類義語でもあった路地というマナ語の使われ方が微妙にずれてうつろい、中上の議論に新しい道筋を与えていると言えるだろう。
 中上にとって、このような変化は、物語というコンセプトの変化も伴う。そして中上にとっての物語は、単に交通の場としてうつろうだけでなく、同時に震えるもの、響くものでもあった。次節では1983年に再開された「物語の系譜」での議論を足がかりにしながら、この点について検討していこう。

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