好き、を、デザイン

私たちは、「好き」という気持ちをちょっとずつ加工して生きてるんじゃないかと思う時がある。

よく言うよね、ぶりっこと言われる女子がゆめかわなもの好きなのってあれかわいく見られるためのポーズじゃないかとか。
私は、全てのそれがポーズだとは思わない。中にはいるかも知れないけど、ゼロだとは断言しないでおくけど。
多分、本音として惹き付けられるものはあるのだ。ただそこに、「これを好きだと明示すると自分に得がある」という意図が少し混じる場合があるだけで。

自分に得がある、というのは、外に向けても内に向けても言える。
外に向けてというのはさっき書いたみたいに、自分が主張する好きなもののイメージによって他者からの自分のイメージも近しいものになることを期待してとかで、内に向けてというのは、自分の心の拠り所を作れるとか、行動指標を定められるとかいうことだ。ともすれば所属欲みたいなものもあるかも知れない。

私が自分に関して言えるなと思うのは、内に向けてのことだ。好きだと思えるものがあると嬉しくなる。今度からそれに出会った時、はしゃいだり(ひとりで……)、商品だったなら買うことが出来る。消費はその行為だけで幸福感をもたらしてくれるから、買うことが出来るのは嬉しい。

ああ、外に向けてもあった。最近、ある程度歳を重ねてきて、年相応のもの、ということをそれなりに意識するようになった。あまり幼いものを好まないようにしようとか、やや大人っぽいものを好きになれるようにしようとか。 結局それって、自分自身の気持ちより、他の人から痛いとか思われたくないってところに拠っている。

自分の「好き」が行動に追いついていない気がする時もある。これが好きでこんなに頑張っているけど、本当にこれそんな好きだったんだっけ。
多分そういう時は、それが好きだから頑張っているんじゃなくて、何かを頑張りたいからそれを好きだという気持ちを動機(代替可能の)として使っているんだと思う。

ある意味、自分自身につく小さな嘘かも知れない。
それでも、好きをデザインすることは、確かに私たちを支えていて、幸せにしてくれることだと思う。ひたすら自分に正直にいすぎるのは疲れてしまうし、好きが少ないと心が寒くなる。

こんなことを考えているあたり、私は自分自身の「好き」さえどこか疑ってかかっているところがあるのかも知れないと不安になるんだけど、だからこそ、疑う余地もないほど、どうにもこらえきれないほどの「好き」に出会えてしまうことは、とんでもない幸運なんだろうなと、思う。

デザインする暇もないほど。

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