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短編小説:色は匂えど散りぬるを

  (一)


 ……名前を呼ばれた。

 彩葉(いろは)は開いていたポメラを閉じて待ち合いのソファから立ち上がった。顔を上げるときにほんの少しだけ明るく染めたミディアムの髪が目にかかった。そろそろ美容室に行った方がいいかもしれない。根元も大分黒くなっている。向き合った時間の割には進捗はほとんどなかったものの、手癖のように保存のCtrl+Sキーを押すのは忘れない。


 母には外での使用を止められていたが、待ち時間が長いから、とトートバッグに突っ込んできたポメラ。立ち上がって周囲を見渡すと、待ち合いに足を踏み入れた時の半分以下に通院患者は減っていた。


 ここは総合病院。ぐるりと中庭を囲む総合受付・精算スペースを通って、更に診療科目ごとの待ち合いがある。名前を呼ばれると、診察室内の中待ち合いに移るのだ。どこの待ち合いスペースからも、遠目であっても中庭の気配を感じる古い建物。通院を重ねるたびに、この風景が彩葉はなんとなく好きになっていた。


 杖を持ち替えてドアを開け中待ち合いに入ると、今日は顔馴染みの看護師がいた。

「ミハルさん!」

「彩葉さん、外は暑かったでしょう?ちゃんと水分摂った?」

 よくある名字の私は、少し前にミハルさんに、差し支えなかったら彩葉って呼んでください、と話した。もちろん、院内規定で許されるとは思っていなかったが、それ以降、ミハルは二人だけの時には、名前で呼んでくれるようになった。季節外れの風邪が流行った夏の初めに4人続けて同じ名字が並んだ中待ち合いでのことだ。他のスタッフと苦笑いしていたミハルに思わず彩葉が言ってしまった。同年代に見えたミハルが雑談で実はバツイチだと知って、彩葉はミハルの年齢を聞けていない。


「今日は彩葉さんが診察最後だからね、ゆっくり先生を話せるよ」

 労るように語るミハルに、彩葉は驚きを隠せなかった。

 青木医師がいつも居る『診察室1』は中待ち合いとはしっかりとした壁とドアで仕切られているが、年配の患者の耳が遠いゆえのコントロールが効かない大声は、中待ち合いまでしっかり聞こえてしまい、いたたまれない気持ちになることもあった。そんな時の表情までしっかり見られてしまっているのだろうか、と驚いたのだ。医療従事者の方には本当に頭が上がらない。


「ありがとうございます」

 礼を告げると次の話題に移る前に、『診察室1』のドアから杖をついた年配の女性が出てきた。覚束ない足取りにミハルが付き添うように、廊下へ続くドアに向かう。彩葉に軽く手を振って。


 ミハルと入れ違うように、彩葉は名前を呼ばれた。




「こんにちは」

 ドアを開けた彩葉に、椅子を回して青木医師が向き合った。今日は余裕があるらしい。

 忙しい時はパソコン画面に向かったまま、顔だけを入り口に向ける先生。トートバックを備え付けのカゴに入れ、横に杖を立てかけると、彩葉は丸椅子に座る。

「その後、お加減はどうですか?」

 先生は座ると白衣の上から少しお腹のボリュームが出てくる。視線を少しだけ外しながら、彩葉は

「あんまり、変わりないです」

と告げた。

「そうかぁ」

 少し悲しそうな顔をしながら、先生は電子カルテに何事かを打ち込んだ。


 ちょっと失礼、と言って、先生は彩葉の首元に手を伸ばした。消毒薬で少し冷たい。触診では特に異常は認められないようで、少しにっこりする。


「睡眠は?」

「時間通りに横になっています。眠れているはずですが、朝起きても怠くて動き出すのが億劫です」

 ますます悲しそうな顔をする。気候のせいかなぁ、とぶつぶつ言いながら電子カルテに向かう。先生は患者に気持ちを寄り添いすぎると彩葉は思う。そう思う反面、月に一度の通院予定を見ると、そんな先生に会いたいなぁ、という気持ちも湧いてくる。

 ただ安心するから。彩葉が退院できるまでに回復できたのは、先生のおかげだ。

「……その、文字はどう?」

「残念ながら、まだ駄目ですね……」

 先生は悲しそうに目を閉じた。

「そうかぁ……」

 全身の状態を確認する診察は続く。




  (二)


 彩葉は二年半前まで趣味で小説を書いていた。同人誌を作って頒布し、そこそこの読者もいた。

 国語の授業で書いた原稿用紙五枚の小説が処女作だった。片面だけが白い厚めの紙に、小説に合わせた表紙絵を描いて提出する、それが宿題だった。とても楽しかった。書くのが楽しくて楽しくて、気持ちが走った子どもの鉛筆文字が踊っていた。


 それから、憧れの職業に『小説家』という項目が増えた。

 今は休職中の会社員だ。

 元会社員になるのはもうじき。




 ある朝、彩葉は突然起き上がれなくなった。

 睡眠不足で眠いだけだと思ったけど、本当に指一本動かせなかった。イベントあわせの本の原稿がまだ少し残っているのに。そんな呑気なことを考えていたのは少しの間だけだった。

 身体がピクリとも動かない。気づいた時にはパニックになった。

(おかあさん、おかあさん!)

 助けを呼ぼうとしたが、声が自分の耳に届くことはなかった。


 慢性睡眠不足ゆえに、何があっても起きられるように設定された大きめのアラームが鳴り響く中、

「いい加減に起きなさい!近所迷惑よ!」

 怒りながら二階の部屋に上がってきた母が見たのは、娘が涙を流しながら目を見開いて天井を見上げている姿だった。

 彩葉の様子が尋常でないことはすぐに伝わったのだろう。唇をかすかにふるわせながら瞳だけで母の姿を追う姿に、母は

「おとうさん、おとうさん!」

と叫びながら階段を駆け下りた。


 彩葉に意識はあった。

 焦った家族に見下ろされて、救急車が呼ばれて。救急隊の人や近所のいろんな人に見られて、想像していたのより激しい救急車の振動に揺られながら、少し安心したのか彩葉は意識を失った。


 目が覚めた時、知らない天井が目に入った。子どもの頃、床に寝転んで見上げた教室の天井に似ている気がした。規則的に響く機械音がなぜか眠気を誘った。


 その日からゆるやかな地獄は始まった。

 原因は今もわからない。

 おそらく『過労』だろうと最初に彩葉を診た医者は言った。

 彩葉は、動けない、話せない、読めない、そんな存在になっていた。


 勤めている会社には、父が連絡してくれたらしい。会社関係の連絡は、落ち着きを失った母ではなく父が一手に引き受けてくれた、そうだ。社会的な申請手続きもすべて。そこそこ大きな会社の総務部の役付だった父は、そういう仕事に慣れていた。


 父は大変だったと思う。

 専業主婦だった母は、彩葉の生活態度を正せなかったのは私の責任だ、とずっと泣いていて、自分を責めて倒れた。検査をやり尽くして原因が見当たらず、ひとまず慢性疲労症候群と病名が付いた頃にお見舞いにきた母は、彩葉の薄い掛け布団にぽたぽたと染みになるほどの涙をこぼした。


 社会人となり離れて暮らす妹と、年が離れたまだ学生の弟の生活にも影響した、らしい。お見舞いにきてくれた弟は、生活を母さんに頼り切りだったことを反省してる、と殊勝なことを言っていた。母にえらそうな言葉ばかり投げかけて、世話をしてもらうことが当たり前だと態度で示していた弟。彩葉は頷くことも謝ることもできずに、弟をただ見上げるだけだった。妹は弱って倒れた母の付き添いをしてくれていたそうだ。すべて伝聞。なにもできない、なにも伝えられない。


 つらかった。


 MRIを始め、沢山の検査をした。お守りにと、ずっとつけていた推しのイメージカラーのピアスは、早々に看護師の手で外された。なんだか頼りのものを失った気がして寂しさを覚えた。神経にはなにも異常がみあたらない、と困ったように医師は言う。ホルモンの値も多少の崩れはあるが、今回の症状の原因には思われない。精神的なものか、過労か……。


 原因が見つからないと、すぐに心の原因、過労と言われる。

 過労。たしかに彩葉は身体に鞭を打つような生活を長くしていた。そこそこ残業の多い仕事をしながら、コンスタントに小説を書き続けるには、睡眠時間を減らすしかない。趣味の友達と遊ぶ時間は作れても、職場での関わりは最小限に。こんなことが許される時代でよかったと、彩葉はしみじみ思っていた。そして学生時代から長く創作に打ち込む生活をしていた彩葉に対して、家族も少し感覚が鈍っていたらしい。早く寝なさい。お休みの挨拶かわりに言われる注意。

 周囲も彩葉はそういう存在だと諦めていた。


 だんだん疲れが取れなくなってきていた。でも、どうしても書きたかった。自分の世界を。自分が書かなければ存在しなくなってしまう、その世界を。

 無理をしなければよかった?


 彩葉はすべてを失った。

 脳内にだけその世界はたしかにあるのに、身体を横たえている間に、どんどん色あせていく。干ばつに遭った世界のように干からびていく。

 彩葉の世界がぽろぽろと崩壊していく。

 泉から水が湧くように、出てくることが当たり前だった言葉は、枯れ果てた。


 つらい、つらい。

 辛い気持ちが洪水となり、彩葉は溺れる。

 家族が彩葉のことを心配し、倒れるほどに嘆いていることより、言葉の泉を失ったことの方がつらい。

 そのことに気づき、彩葉はとても悲しかった。




 つらさの小川に為す術もなく浮かんでいる水死体のような存在。そんな状態が一年程続いた。食事は長らく口からは取れなかった。


 一時入院していた母が久方ぶりに病室に来たとき、母はこんなに痩せて……と呟いて、私の手を何度もさすった。点滴と経管栄養に支えられた状態が続き、長期入院が見込まれ費用を抑えるために、その頃には6人部屋に移っていた。同じように自力では動けない患者が集められた部屋。彩葉は最年少だった。数時間おきに看護師が訪れて、体勢を変えてくれる。足下では常に靴下状の空気ポンプが稼働している。


 複数のポンプの稼働音だけが響く静かな病室で、十歳は老け込んだ母ははらはらと涙をこぼした。母をこんなに悲しませて申し訳ない、という気持ちの前に、窓から射す夕方の光にきらめいた涙を、光に包まれて涙を流す母を本当に綺麗だと思った。この美しさを言葉にしたいと。

 思ってしまった。

 私はひとでなしだと、ぼんやり思った。


 窓際からふたつめのベッドに横になったまま目をつぶると、まぶた越しに日の光がもやもやと模様を描く。思考ももやもやと渦を巻く。ああ、この光景を言葉に起こしたら、どんな表現になるだろう。そんな思いも言葉が詰まったように脳裏にすら出てこない。悔しいな、と思いながら、思考は闇に落ちる。


 毎日はそんな繰り返しだった。


 SNSでしかつながりのない、本名を知らない友人達は、もう私のことを忘れてしまっているかもしれない、そうぼんやり思った。彩葉のスマホに直接連絡があったリア友には、簡単に事情が伝えられたらしい。学生時代から付き合いのある、唯一親友と呼べるかもしれない未那の顔がふと浮かんだ。いくつも申し込んでいたイベントも、もったいなかったな、未那に譲れたら良かったのに。訳もなくそう思った。


 仕事のことは倒れてしばらくすると考えなくなった。会社関係の方をはじめ、お見舞いは申し訳ないけど断らせてもらったのよ、といつか母が言っていた、気がする。そんな家族の問いかけに対しても、彩葉は言葉を発することができない。かすかに頷いただけだ。


 意思の疎通を図るために、まばたきで文字入力ができるパソコンの導入も検討されたそうだが、彩葉には文字が認識できないことがわかり、却下された。


 原因不明の脳の機能障害が疑われ、急性ディスレクシアという病名がひとつつけられたが、それだけで彩葉の病状が説明できるわけではなかった。




  (三)


 倒れて季節が一巡した頃に担当医が変わった。青木医師だ。

 初めて顔を合わせた時、つらいだろうによく頑張ってるよ、そう言ってくれた。その言葉は長く彩葉の記憶に残った。


 倒れてこの方、文字はまったく読めなかった。カレンダーの数字すら、意味をなさない記号のようだった。動けず、食事らしい食事ができない日々は、ただ太陽で照らされる昼と、消灯後の闇で区切られていく。そうか、もう1年経ったのか、そう思った。


 少しずつ、彩葉の世界が変わってきたのは、青木医師が担当になってからだった。


 まず点滴の内容が見直された。いつもと違う色のパックがゆらゆら揺れているのを、彩葉はぼんやりと眺めていた。

 気づくと茜色に照らされた世界に、彩葉は立っていた。自分の足で立っていることに、夢の世界とはいえ驚きがあった。ふんわりとした影が水の中を漂うように、彩葉の視界を横切りながら意味のある形を取ろうとする。重なりかけて少し濃く見えた影は、しゃぼん玉がパチンとはじけるように姿を消した。


 そんな夢を何度も何度も見た。

 現実の彩葉にとって、一日の概念は儚い。

 青木医師が彩葉を診るようになってから、毎朝看護師が

「今日は何月何日、何曜日よ」

と教えてくれるようになった。彩葉は長い闘病生活で、その情報を長く留めておくことができなくなっていた。でも、短い時間なら覚えていられる。


(今日は何月何日、何曜日……)

 呪文のように繰り返しながら、彩葉はうとうとと眠っていた。


 青木医師はいつも午後に様子を見に来た。

「やぁ、具合はどうだい?今日は何月何日、何曜日、外はよく晴れているよ」

 彩葉はゆっくりと瞬きをして、心の中で繰り返す。

(今日は何月何日、何曜日……外はよく晴れている……)


 本格的なリハビリも開始された。瞳以外、動かすことができない彩葉を抱え起こして、PT(理学療法士)の女性が、話し掛けながら枯れ木のように肉の落ちた四肢をゆっくりと動かしていく。電極のついた医療用のマッサージ機器を取り付けられることもあった。


 青木医師は誰よりも彩葉の可能性を諦めていなかった。その行動が、周囲の医療従事者をはじめ、諦めを隠せなくなっていた家族をも動かし始めた。




  (四)


 久しぶりに実家に顔をだした未那は、バス停から高台に建つ総合病院に目をやった。見慣れた風景の、子どもの頃から当たり前にある風景。そこには学生時代からの友人、彩葉が入院している。入院してもう一年以上になる。


 LINEがなかなか既読にならず、音声通話の折り返しもなく、迷いに迷って家の電話に電話したのは、彩葉が入院した5日後だった。その時にお見舞いは彩葉の父に断られた。あらためて電話をする勇気が湧かず、行きなれた彩葉の家のチャイムを押したのはさらに一週間後だ。


 気怠げに玄関にでてきたのは、彩葉の年の離れた弟だった。記憶に間違いがなければそろそろ高校受験の年齢じゃなかっただろうか?

 学生時代に制服を着替えないまま彩葉の部屋に遊びに行くと、小学校にあがる前の小さな男の子がよく様子を見に来た。部屋のドアを少し開けてのぞき込む、はにかんだ笑顔を浮かべる小さな男の子。あの子がもうこんなに大きくなったのか、とあらためて驚いた。


 あまり状態は良くないらしい、ということは、彼の言葉の端からうかがえた。

 お見舞いのメッセージカードと、イベント土産の掌に収まるほどの透明アクリルのオブジェの入った小さな紙袋を弟に託した。病状が落ち着いたら連絡くださいと伝えてください、そう伝えた時に彼が少し動揺したのがわかった。そんなに悪いのか、未那の気持ちに重しがずんとのしかかった。

 それ以来、彩葉との連絡は途絶えたままだ。

(会いたい)

 少し視界が歪んだ。知り合いに彩葉の様子を尋ねられることも、最近はなくなってしまっていた。

「彩葉ぁ……」

総合病院の方向を向いたまま、思わず声に出てしまった。じんわり景色がにじむのを、未那は止められなかった。



 未那は彩葉の書く小説が好きだった。

 彼女の描く世界とキャラクターは、未那を夢中にさせた。雑談で未那が大好きなキャラクターがこの先の展開で死んでしまうと知ったとき、未那は思わずボロボロと涙を流し、彩葉を慌てさせた。少し落ち着いて謝る未那に、彩葉は自分の作ったキャラクターが、そんなに愛してもらえて幸せだ、とお礼を言われた。


 小説を書き上げると、ゲラの状態の小説を彩葉は未那に真っ先に読ませてくれた。視線を感じた未那がふと紙束から目を上げると、彩葉は未那の様子を頬を紅潮させながら見つめていた。

 未那は彩葉の作品の、一番のファンだと自覚していた。

 今は……学生時代から一緒にいる親友の様子を、知ることもできない。もう少し彩葉の家族と仲良くしておけばよかった、未那は心から後悔していた。


 総合病院に向かうこともできたが、それは病院にとっても、彩葉の家族にとっても迷惑であることはわかっていた。ただ、待つしかできない、そんな事実が、未那には苦しくてたまらなかった。




  (五)


「おはようございます。今日は×月×日、×曜日。風が強いけど、良いお天気だよ」

 彩葉の反応を見ながら、覗き込むように青木医師がにっこり笑って言った。

 彩葉もゆっくりと瞬きしながら、表情をゆるめる。脳裏では、青木の言葉を何度も繰り返しながら。

「気分はどう?……そう、問題なさそうだね」

 彩葉は少し身体を起こせるようになっていた。ほんの少しずつだが、PTの意見を聞きながらベッドの角度を上げていった。少し視界が高くなるだけで、世界が大きく変わることに彩葉は驚いていた。


 誤嚥を心配され一部で反対もされたそうだが、身体を長く起こせるようになってしばらくして、彩葉の食事のリハビリが始まった。液体と言っていいとろみのついた粥をひとさじ、ふたさじ。赤ちゃんからやりなおしているようだ、と彩葉は思った。


 ゆっくりと様子を見ながら十倍粥を口に運んでくれるのは、彩葉と同年代の看護師だった。

「赤ちゃんみたいって思ってる?

 ……そうなの。長く口と喉を使っていないから、今は食べ方を覚え直しているの。ちょっと時間はかかると思うけど、退院に向けてのひとつのステップだから、頑張ろうね!」

 明るい笑顔で彩葉に語るその看護師は、青木医師が来た頃から見かけるようになった看護師だった。胸についている名札は彩葉には読めない。名前も聞けない。以前名乗ってくれたかもしれないが、忘れてしまった。


 次第に身体を起こしている時間が増えた。就寝時間と彩葉が眠そうにしている時以外は身体を起こすようになった。異動があったのか、PTは女性から男性に変わった。足や腕の大きな筋肉から手指のリハビリまで。少しずつできることは増えていった。PTの男性は彩葉の指のマッサージをしながらしみじみと聞いた。

「なにか指をよく使うこと、やってました?」

もちろん返事はできないし、できないこともPTは知っている。彩葉は微妙な顔をした、ようだ。反応があったことが嬉しかったのか、PTの男性は素敵な笑顔を見せた。彩葉はこの笑顔も文章にしたい、と心から思った。自分のキャラクターに、こんな笑顔をさせたい。

 彩葉は自分にこの気持ちを忘れずにいられるだろうか、記憶に留められるだろうか不安だった。

 不思議な夢を見る時間は、この頃から少しずつ減っていった。




  (六)


 今日子は実家の最寄り駅前で、プリンを四つ買った。弟が二泊三日の合宿に行くことになったそうで、弟の帰宅予定日の翌日までの賞味期限のものを選んだ。特設売場に並ぶ商品の中には、普段なかなか口にすることができないプリンもあったが、それは賞味期限が短すぎた。帰りにまだ売っていたら、自分用に買おうかな?と一瞬思ったが、明日の夜まで売れ残っていることは考えづらかった。今日子は仕方ないな、苦笑いしながらため息をついた。


 弟の留守と父の断り切れない出張が重なり、夜間母をひとりにしておくのが少し不安だった。うまく調整できて先月の休日出勤の代休を充てることができたのだ。

 昨年使い尽くした有給休暇は復活していたが、何が起こるかわからない。有休を使うには慎重になっていたけど母が心配だったので、希望通り代休が取れてホッとした。


 今日子は四つ入りのプリンの箱を見て、長期入院している姉を思った。姉が入院するまで、誰かが買ってくる手土産のケーキやプリンは六個入りの箱に緩衝材変わりの紙の輪っかが入っていた。もうプリン位食べられるようになったんだろうか。さりげなく聞けるタイミングがあったら聞いてみよう、そう思った。


 姉が原因不明の症状で救急搬送されたとき、今日子は実家を出て電車で一時間程かかるマンションに住んでいた。通勤に便利なように借りたワンルーム。今日子の仕事は残業が多いと言われるシステムエンジニアで、自宅から通うのは体力的に辛いし、遅くなる帰宅時間も気になるというもっともな理由を心配する両親に告げた。三歳離れた姉と違い自宅に籠もるような性格ではなかったので、今日子は早く家から出たかった。


 今日子に連絡が入ったのは昼前。仕事中だったが、立て続けに入ったLINEをみると姉が緊急搬送され母が倒れたというものだった。今日子は即座に上司に相談した。

 まだまだ下っ端の仕事しかできない今日子を上司はこころよく、心配げに送り出してくれた。その日から今日子は母担当のようになって、あまり姉とは関われていない。母の状態が落ち着いた頃には、姉の病状は残念なことに変化がなくなってしまっていたので。


 一人暮らしになったら、心配性の母ともう少し距離がとれると思っていた。勝手に無理をして、周囲の心配の声に耳も貸さずに自分の好きなことに必死だった姉。馬鹿みたい、だけど凄いな、と自分にはそんなことできないと半分ひきながら思ってた。母の自責の念を軽くするため、姉へ辛辣な言葉を口にしたこともあったが、結局のところ姉のことが心配だった。四つのプリンが入った袋を下げ、今日子はバスターミナルに向かった。

 バスから吐き出されてくる人混みの中に、姉と同じ年頃の見覚えのある人がいた。そんな気がした。

 今日子はそのままバス乗り場に向かった。




  (七)


「これ、リハビリでは初めての食べ物だけど、なんだかわかる?」

 昼食の最後に潰された黄色と茶色の混ざったものを口に運ばれゆっくりと歯と舌を使って咀嚼し飲み込んだ後、甘味の美味しさと懐かしさ、そして嬉しさに彩葉は大きく息を吸って、吐いた。


「プ、…………」

「!!!今、プリンって言った?」

 よく食事介助をしてくれる看護師が、驚いてスプーンを握りしめた。彩葉の耳には掠れた破裂音のプ、しか聞こえなかったが、彩葉自身も驚いた。


 発語についてはすぐに青木医師に伝えられた。それから間もなく、彩葉はたどたどしくではあるが、話せるようになった。具体的な意思疎通がはかれるようになって、彩葉のリハビリは加速度的に進んだ。


 時々、彩葉は夢を見た。

 夕焼けの暖色の日差しに包まれて、彩葉は立っていた。実際はもう1年以上立つことは出来ていないのに。足裏にはしっかり地面を踏みしめる感覚があった。

 水の中を泳ぎ漂う金魚のように、薄灰色のもやもやするものが彩葉の視界を横切っていく。淡い影が漂って重なり遭うときにははっきり黒い形になった。手を伸ばそうとすると、するりと遠ざかる。身体を傾けると足が自然に一歩動いた。届きそうだと思った瞬間、ゆるり、と影は遠ざかる。もう一歩、彩葉は歩いた。ギクシャクとした動きだと自分でも思えたが、たしかに彩葉は夢の中で歩いていた。


 夕焼けの光は群青と橙色と朱色のグラデーションに変わっていき、黒いもやもやした影は見えなくなったが、彩葉は満足していた。



 彩葉のリハビリは続いた。

 呼吸以外の生きるための行動すべてがリハビリの対象だった。時折見る夢の中では、現実の彩葉より少し未来の状態であることに、彩葉は気づいた。


 美しい色彩の風景の中の、今より少し良い状態の自分。

 励みになったし、良い夢が見られるように、想像力を鍛えようと思えた。妄想とも呼ばれるが、それは彩葉の生きる力の動力源だった。


 そんな風に切り替えができた瞬間、彩葉は心から笑顔になれた。そばにいたリハビリ中のPTと看護師が驚き、そして笑顔になった。彩葉は倒れて初めて、笑顔になれる自分に幸せを感じた。


 それから半年程で、彩葉は退院することができた。両親と弟が迎えに来てくれた。長期入院で増えた荷物は、トランクと弟の膝の上になんとか詰め込むことができた。


 退院の翌日、妹が付き添ってくれ、家族でお世話になっている馴染みの美容室に行った。母から事情を聞いていた美容師は涙目で、彩葉を迎えてくれた。

 良い人たちに恵まれている、彩葉は幸せを感じた。年単位で伸ばしっぱなしになっていた髪は扱いやすいようにミディアムに切られ、随分と頭が軽くなったことに彩葉は驚いた。闘病中にまだらに色が抜けていた髪は、自毛の色より少し明るめに染められた。

 ひとつずつ、彩葉の生活が戻ってくる。




  (八)


「先生、ありがとうございました」

「無理はしないようにね。休養第一で。次はまた来月、予約してね」

 彩葉は軽く腰を曲げ、頭を下げた。トートバックと杖を手に取り、立ち上がるとスカートの裾を直して診察室1を出た。

 中待ち合いに入ると、ミハルが介添えしてくれた。総合受付の手前まで一緒に歩く。

「彩葉さん、元気そうでよかったわ。退院まで本当によく頑張ったわよね」

「先生はじめ、病院の皆さんのおかげですよ」

 こつこつと、ゴム足をつけていても杖の音が廊下に響く。

「寝たきりだった彩葉さんが歩いているだけで、私にとって感動ものなのよ」

 とミハルはしみじみとした後で、プリン食べた時のことは覚えてる?と聞かれた。

「美味しかったです」

 笑顔で応える彩葉にミハルはふふふ、と笑った。あの時一緒に居てくれたのはミハルさんだったのか。彩葉の中で答え合わせができた気がした。

「食べ物の威力はすごいよね~」

「本当に」

 二人は総合受付前で笑顔で別れた。

 また来月、と手を振って。



 精算が終わると、彩葉は病院の入口に移動して母にLINEをした。

「今日子が夜帰ってくるって。気をつけて帰りなさい」

「お土産はプリンがいいなって伝えといて」

 彩葉の口はすっかりプリンの口になっていた。病室で食べたぐちゃぐちゃに潰されたプリンの味は忘れられない。

「プリン買っていくって言ってたよ」

「やった!」


 杖を突きながら、彩葉は総合病院を後にした。長い外出で疲れているはずなのに、心なしか足取りが軽い気がした。

 昼過ぎの明るい日差しが濃い影を作る。彩葉はしまったという顔をして、トートバックからつばの広い帽子を取り出した。

 空を見上げる。太陽はじかに見なくても十分まぶしい。室内からでは見ることのできない、視界の白さだって幸せだ。

 バスの乗り降りで手間取り、背後から舌打ちされることがあったとしても。


 彩葉はもう絶望していない。

 彩葉が書いた文章は、彩葉にはまだ読むことができない。

 でも、カラカラに干からびた海綿のように硬くなった脳みそは、水を吸収したように動き出している。この二年の間に地層のように固まったいろんなことが、少しずつだけどにじみ出てくる。そんな宝物を彩葉は言葉にすることができる。


 彩葉は言葉を語ることができる。場所は選ぶけど、パソコンなら音声入力だってできる。ポメラにブラインドタッチで打ち込まれた文章を、誰かに読み上げてもらうこともできる。パソコンにテキストを移せば読み上げさせることもできる。


 大号泣で再会した未那はきっと手助けしてくれるだろう。だけど、彩葉はいつか自分自身で読める日がくると、

 必ずくると信じている。



了.




※この物語はフィクションです

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