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昔の記憶

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幼い頃の断片的な記憶
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ちょっと不思議な節分とルマンドを撒きたい私

私の母はものを作るのが好きだった。 遊び道具も、服も、料理も、ちょっと変わったオリジナルを編み出すのが得意で、子供が喜ぶような面白いものをよく作ってくれた。 どこからともなく持ってきた木板に絵を描いて釘を打ち、上からビー玉を転がすなんちゃってピンボールのようなおもちゃを作ってくれたり、ある時の夏は「子どもたちー!集合!」と言ってリビングに呼び出したかと思ったら「宇宙船が来たよ!」とスイカを丸々くり抜いて器にした大きなフルーツポンチを持ってきたこともあった。 どのへんが宇宙

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テキーラを知らない頃に味わった、恐怖のテキーラ

お正月に帰省した時に、久しぶりに実家に置いてあったエレクトーンに触ってみた。高校の終わりまで習っていたものの、頑張ってやっているというよりはギリギリやめていなかったくらいの熱量で続けていた私。 発表会とかグレード試験(検定みたいなやつ)もあったなぁ。 コンサート的なものも行った気がするけどもうほとんど思い出せないや。 そんなことを考えながら触っていたら、ふと今まで忘れていたかすかな記憶を思い出した。 あれは、何才だっただろうか。 講習会のように、全員がスタンディングせず大

思い出の給食とあまり思い出にならなかった卒業制作

「思い出の給食って何?」 人生で何度かはそんな話をする機会がある気がする。 ソフト麺や揚げパン、冷凍みかん、ひな祭りやクリスマスなどのちょっと特別な日のメニュー。牛乳は瓶だったか、三角だったか四角だったか。ミルメークやコーヒー牛乳、フルーツ牛乳は出たか。 地域や世代によっての違いもあり、色々な人と盛り上がれるような話題である。

同僚と私の、母ちゃん怒られエピソード

幼い頃に親に叱られた記憶や兄弟とのケンカ。 みなさんはどれくらい覚えているだろうか。 先日同僚とそんな話をしていたのだが、いつも落ち着いていてスマートなイメージの彼女からなかなか激しめの昔話を聞いてちょっと驚いた。 「私高校の時しっかり反抗期だったから親とめちゃくちゃ仲悪かったよ」 「え〜!そうなんですね、意外。"しっかり反抗期"って夜に窓から脱走する的な感じですか?」 「そうそう、夜中に家抜け出してバイク乗り回したり、友達の家で酒盛りしたりしてた(笑)」 「酒盛り

ヒロばあちゃんと私とおはぎ

「甘いの食べたら元気になる」 甘いものをあまり好まなくなった今でも、それは正解だと思う。 私は幼い頃、生まれた時からその町で育っているのにも関わらず、時々なんだか疎外感のようなものを感じていた。 小さな田舎町ならではの悩みではないけれど、町にいる子どもたちはだいたい両親ともにその町や周辺の出身の人が多く、祖父母と一緒に暮らしていたり、近くにおじいちゃんおばあちゃんが住んでいる人がほとんどだった。 対して私は、父親は北海道の生まれではあるもののその町の出身者ではなく、母

幼い頃に覚えていた曲を思い返して新たに知ったこと

私はどうやら幼い頃の記憶を結構覚えている方らしい。 自分ではみんなこんなもんだろうと思っていたのだが、ある友人は「私多分小学生の5,6年くらいの時からしか覚えてない気がする〜」なんて言っていたし「あんたそんなこと、よく覚えてるね」なんて親に言われたこともある。 確かに物心ついてからの記憶の方が詳しく覚えていることが多いのではあるが、私が大人になってからふと思い出すのはそれよりももっと前、何も意識せず見聞きしていた頃の断片的な記憶も多い。 "みんなの歌"の歌詞やメロディとか、

禁断のねるねるねるねと兄との思い出

幼い頃、我が家はとにかく禁止事項が多かった。 テレビ番組やお菓子などはその典型だったが、友達の家に泊まりに行ったりすることも基本的には致し方ない理由がないとNG。 かなり昔の記事でも書いたがnoteの読者のみなさんと共に笑いながらぶったまげたのでいうと「武田鉄矢」も何故かその禁止のラインナップに入っている。 大体こういう家庭の場合は、第一子がわがままを言ったり自我を貫いてくれたりして厳しめのルールが段々ゆるくなっていくはず、というのを期待していたずるい末っ子の私だったのだが

初めてのスパイスカレーと、秘密のたまり場だった「アジア屋」

初めて親や大人がいない中で外食をしたのはいつだろう。 私は多分、高校1年生だったと思う。 そもそも住んでいた町にはレストランや喫茶店など飲食店らしい飲食店はなかったし、あったとしても結局「あーら、3丁目の日野さんとこの〜」みたいなレベル。 これでは私の中では今ひとつ外食とは言えない。 町を出て市街地に行けばいくらでもお店はあったが、そこまで行くのに片道約1時間、電車代にして1000円足らず。 往復で2000円もかかってそれから外で食事をするなど、小中学生の頃はとてもじゃな

ある夏の日、マスクを取ったら6年生の夏休みが蘇ってきた

雨上がりの朝。 いつもよりちょっと早い時間に家を出て、誰もいなかったのでマスクを取って深呼吸。 心地よい風が吹いて、体の中にスーッと入り込んでくる、水気をたっぷり含んだ朝の匂い。 あ、これ知ってる。あれだ。 ラジオ体操の朝の匂い。 私の住んでいたところでは、夏休みに毎日ラジオ体操が行われていた。 毎朝「〇〇町会館」みたいな名前の建物の前に子どもたちが集まる。 いつもは何に使われているのか全くわからない、平家の事務所っぽい建物の前の駐車場。 そこで6年生が最前列に並び、お手

質問:「昔から持っているゲーム」について答えてみる

【ニンゲンを待つ質問箱】 ずっとTwitterに放置していた匿名の質問を募集する「質問箱」。 まるで音沙汰がなかったので「運営からの質問を受信する」という機能をオンにして、木枯らしが吹いている私の質問箱を賑やかしてもらいつつ、人間の方から質問が来るのを待っている。 今日は運営さんからの質問。 ちょっと面白そうだったのでこちらに答えてみようと思う。 質問はこちら。

色水に没頭していた私の、淡い彩りと無の世界。

子供の頃って、今思うとなんであれがあんなに面白かったんだろうと思う遊びが多々ある。 今でこそ乳幼児から小学生までいろいろな年齢に対するさまざまなおもちゃが世の中には溢れているが、田舎育ちの野生児だった私の幼稚園児の頃の遊びといえば、大体外遊びがほとんどだった。 幼稚園の園内には庭やちょっとした小山などがあり、私たちは日々そこをかけずり回ったり、砂や土、草などその辺にあるものをなんでも使って遊んだ。 しかし、私はなぜか小さい頃から泥遊びがあまり好きではなかった。 汚れるし

負けず嫌いの末っ子な私と、シャイな兄との冷戦の思い出

私には兄が1人いる。 昔から兄弟喧嘩はあまりしなかった方だ。 幼い頃は、田舎だったせいか男女や年の差などもあまり関係なく、私と兄、近所に住む兄の同級生と、その子のお兄ちゃんなんて組み合わせで一緒に草っ原をかけずりまわっていたこともある。 しかしそれも大体小学校の中学年くらいまでで、それよりも大きくなると兄は外ではあまり私にはかまってくれなくなった。 もともとちょっと内弁慶でシャイな兄は大きくなるにつれ、恥ずかしいのか外ではあまりつれない奴になってしまった。 ちなみに兄が

紙に書くことで、心の中に滞留する気持ちを少し手放す。

私には「書く」ということについて、ある強烈な思い出が1つ残っている。 小学生の頃、私はかなりのマイペース、マイワールド全開少女だった。 周りのことをあんまり見ていないし、気にしていない。 自分のことだけを考えて生きているような子どもだったと思う。 その結果、みんなで学校でお泊り会をしているというのに、謎に一人っきりで校長室に引きこもり(?)就寝するなど、今思うとかなりエキセントリックな思い出もある。 今思うと、というか今もさして変わっていないかもしれないが、私は昔から集団

私と兄とリカちゃんとレッドくんの、悲しいハウスパーティ事件簿

幼い頃、我が家にあったリカちゃん人形。 きっといつかの誕生日か、クリスマスのプレゼントでもらったものだろうと思う。 当時私には自分の部屋が与えられていなかったが、うちのリカちゃんには持ち家があった。リカちゃんハウスは、取っ手がついていて折りたたんで持ち運びまでできてしまう優れものだ。 友達と、各自持ち寄ったリカちゃんやバービーちゃんを迎え入れ、ハウスパーティをして楽しんだりしていたのを覚えているが、私には、ある忘れられない来客がいる。 とある休みの日に、私は兄を人形遊び