見出し画像

「好き」はまだ自分の言葉にならないけれど、

昨年末にnoteを書いた。
人を「好き」な感情がわからない、けれどわかっていきたい。という私の現状整理と意志。
今回はそのあとがき的な位置づけで書く。

初めて読んだ方へと振り返りのため、ざっくり要約。
・私は人に対して「好き」や「特別」な感情がわからない。
・人を「好き」な要素に「その人のために何かをしたい」感情があるんじゃないか。
・私にはそれもない。ないけど、抑え込んで踏み出せないでいるのかも。
・変わりたい。「好き」をわかっていきたい。

結論から言ってしまうと、私はまだ「好き」がわからない。
だけど書いておきたいことが生まれた。だから書いている。
さて、どこからお話ししようか。

賞参加と、反応のきっかけ

実は上記note、"第二回教養のエチュード賞"に参加していた。
至って深い意味はなかった。第一回の頃から知っていて(応募もしていた)、応募作品と賞の進行に面白さを感じていたから。賞選考が終わっても関わった人の物語が動いているような、希望の光を見た。
審査で私の文章を読んでもらえるし、あわよくば何かの機会になればいいなとほわほわした気持ちで応募のハッシュタグをつけた。

それが結果として、想像以上に反応をいただくきっかけになった。
大きな契機は、教養のエチュード賞主催の嶋津亮太さんに紹介いただいたこと。
嶋津さんは今回応募作品全ての紹介をコメント付きで行っている。すごい。ただただ頭が下がります。

やってみてよかった。ありがとうございます。

言葉の贈り物

書いた言葉への反応はいつも嬉しいものだけど、今回はTwitterやnote等でコメントをいただいたのが最も嬉しかった。
私に届いた「言葉の贈り物」。こんなに嬉しいものとは思いもよらなかった。

言葉の贈り物で「つながった」感覚を持った。
相手に私をわかってもらえたし、私も相手がわかっていると相手に伝わっている、信頼の気持ち。
「"つながった"んじゃないか」と淡い期待。
もちろんわかっている対象はほんの一部に過ぎない。ちょっとの言葉のやり取りで全てをわかるなんてとても困難だ。

それでもnoteを読んでもらって、誰かに何かが伝わったこと。
私のnoteの内容を受け入れたうえで、誰かが意見や感想の言葉を発してくれたこと。
私がその言葉を読んで伝わること。
確かに読んでくれたんだ。そして感じた心を言葉に仕立ててくれたんだ。
それがとても嬉しくて、心が浮ついてふわっとした。
本当に、ありがとうございます。

やっぱり「好き」ってなんだろうね。

「自分で選んで、これからも一緒にいる意志」
「相手への信頼の証」
「ダメダメなところもも愛おしい」
「なんでも一番最初に言いたい、伝えたい」
「弱みも見せられる」

読んだり聞いたりした言葉たち。どれもそれぞれの「好き」の形の一つ。
正解は存在しないだろうけど、納得した。
そんな「好き」同士になれる人たちは素敵だなと思った。

けれど、「好き」がまだ自分の言葉になっていない感覚がある。
知識はあるし理解できるけど、私の実感としてのわかる感覚がない。腹落ちしないとでも言おうか。
私の感覚としてわかっていないから、自分の口や心から発する言葉で形容できない。
私が特定の誰かに「好き」の感情を持ったことがないから。

心臓は選んでくれない、だから「好き」を育てる

今まで自分で「好き」を持とうなんて意識がなかった。自然と好きになるものだと思っていた。
でも、「好き」の形はひとつではない。
「好き」を育てる。
誰かをこれからも選んで「好き」でいると決める。
私はきっと、そちらの方が性に合っている。
「好き」はまだ自分の言葉にはならないけれど、いつか自分の手でつかみ取る資格は持っていたんだ。
そう感じたら、心にポッと明かりが灯ったみたいで、落ち着いた。

***

そうは言っても誰かを好きになるのは怖いはず。私にできるのかな。
相手の影の部分を見ても傷ついたりせず、ずっと好きでいられるのだろうか。
こっちが好きでも相手に嫌われたり忘れられてたりしたらショックだ。
怖くても相手に伝えたい、一緒に居続けたいほどの熱量を保てるのかな。

まだまだ「好き」を読んだり聞いたり、考えたり書いたりすることになりそうだ。





ここまで読んでくださりありがとうございます。 スキやコメント、ツイートしてくださるとこっそり大喜びします。