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侘茶とロックンロール


※2022年10月に公式LINEにて配信されたコラムを編集し再掲したものです。

親愛なる友だちへ、ひねもです。

最近”千利休”にちょっと興味があって本を何冊か読んだ。

そうしたらロックンロールとの共通点を幾つか見つけた。


侘茶はカウンターカルチャー

“茶の湯”という日本独自の文化。

その中で千利休は“侘茶”というスタイルを確立させた人物のイメージでいた。

“茶道“と聞くとどうしても厳格な格式ばったものといった印象が強い。

“侘び寂び”という言葉もある。

枯れた冷たいイメージだ。

しかしながら本当にそうだろうか。

元々は豪華だった茶の湯に対してアンチテーゼまたはカウンターカルチャーとして”侘茶”があったらしい。


千利休のイメージ

現在に至るまでの千利休のイメージの大半は豊臣秀吉に重用された後によってだが、そのとき千利休は既に61歳。

つまり人生のかなり後半部分だけで人物像が語られている。

これでは千利休のほんの一部分を見ているに過ぎないのではないか?

ちなみに”侘び寂び”という言葉は千利休死後だいぶ経って江戸時代に入ってから呼ばれ始めたらしい。

存命中の安土桃山時代にも“侘び寂び”という言葉自体はあったものの本人がそう言っていたわけではないらしい。

知らなかった、、、。

“利休”という号を賜ったのが63歳。そのときに名実ともに天下一の茶人として知れ渡った。

70歳で鬼籍に入ったことを考えるとかなり晩年のことだ。

ちなみに織田信長に見出されたのは50代のとき。

千利休は10代の頃からお茶の道にのめり込み、その世界で色々と活躍をしていた。

しかし他にも色々な顔がある。

・裕福な魚問屋の倅という商人の顔

・三人の妻がいたという恋多き情念の顔。

・在家ながら三十年に渡り参禅し悟りを開いたという禅の人という顔。

“茶道と禅”の組み合わせは僕の持っていたイメージそのままだ。


侘茶を発明した人物

ちなみに千利休が“侘茶”を発明したわけではない。

もっと昔に村田珠光(1422-1502)という人物がいた。

その人が”侘茶”を編み出した。

ちなみに村田珠光はあの“とんちの一休さん“の弟子。

で、お茶を通して人間としての成長を促す

”お茶×禅”

という思想に共鳴したのが

武野紹鴎(1502-1555)という人物。

この人が千利休の師匠にあたる。

ちなみに村田珠光と武野紹鴎は上記に記している通り生きた年代が全然違うため面識は無い。


それまでのお茶会と侘茶

儀式的で格式ばかり気にしたお茶会。

珍しい舶来品の道具ばかりがもてはやされる。

それらをたくさん持ってる金持ちの自慢大会になっている。

本来の目的と違うのではないだろうか?

不必要な部分が多過ぎる。

として侘茶が始まる。

日常生活で使うような茶碗でもお茶をやってもいいではないか。

不完全こそ美しいのだ!

大事なのは気持ちの在り方でしょ!

というのが本当の”侘び寂び”らしい。

なんだかもう侘茶ってロックンロールじゃん。

ドブネズミみたいに美しくなりたいじゃん。

と思った。


侘茶を広めた千利休

そんなカウンターカルチャーである”侘茶”を極めて世の中に広めたのが千利休。

村田珠光から武野紹鴎そして千利休と100年近くかかってついに”侘茶”という文化が確立したということらしい。

この辺りの流れを恥ずかしながら全く知らなかった。

千利休の茶道が最初から王道ど真ん中なのだと思ってしまっていた。

侘び寂びは”枯れている”というより”削ぎ落としてなお残る情熱のような何か”という印象に変わった。


利休のセンス

千利休の美意識は凄まじかった。

常に定規を持ち歩いていて物を置く位置は畳の目いくつなど全て決めていたらしい。

諺じゃないんだから...と突っ込みたくなってしまうが、そのセンスが凄まじくてみんな納得してしまうらしい。

そうセンス。

センスの塊なのだ。

先程も書いたようにそれまでのお茶会は

豪華絢爛が最高!
外国の珍しい道具を持ってたら威張れる!

と、ある意味でとても分かりやすかった。

しかし侘茶は引き算の美学なのである。

無駄を省く、そして不完全の中に美を見出すというセンスの世界。

そうなると

これがわからない奴はセンスの無いやつだ

という雰囲気が漂う。


切腹の理由?

切腹させられたのは傲慢だったせいでは?という説もある。

千利休は豊臣秀吉に切腹を命じられてその生涯を突然終えてしまうが、理由は明確にはわかっていない。

なので後世の僕らは想像するしかない。

豊臣秀吉といえば庶民からのしあがった男で派手好き。

成金趣味的というか。

そこに”あんたより俺はセンスあるぜ!”ともちろん口には出さないが、そのオーラがビンビンな千利休がいる。

これはどうにも気に入らなかったのでは?と考えてしまう。


利休の茶室

“待庵”という千利休が作り今も現存している茶室がある。

正確に言うと作ったのではないか?と思われている茶室なのだが広さがなんと二畳しかない。

極限まで無駄を省く美学。

侘茶を極めていくにつれ茶室はどんどん狭くってなっていって最初は四畳半くらいだったのが二畳または一畳半の世界に辿り着いた(らしい)

この言葉はあまり好みではないが究極のミニマリストだ。

もうこれ以上は何も削れない...という境地に千利休は辿り着いてしまったのだ。

この茶室で天下人である豊臣秀吉にお茶を出す。

身長が当時にしては大きく180センチもある千利休。

小柄で猿と呼ばれた秀吉と対峙する。

狭いので振る舞いに敏感になるだろう。

そこで

“あんたは天下を手に入れたかもしれないけどおれの方がセンスはあるぜ”

という空気を漂わせてた(のではないだろうか)と考えてしまう。

どの分野であれ自分より上がいるってのは覇者としては気に入らないだろう。


金の茶室も利休考案?

有名な”金の茶室”も千利休考案ではないか?という説もある。 

豊臣秀吉が作ったと言っても当たり前だが自分で木を切ったりするわけではない。

誰かに命じて作らせたわけだ。

そうなるとこれはやはり千利休以外に思い浮かばない。

金をふんだんに使っているので単なる成金趣味の建物と見てしまえばそれまで。

しかし、ある意味でこれも侘茶ではないかという見方も。

例えば海外のサグラダファミリアや日本だと日光東照宮など。

そういった複雑な建築物と比べると”金の茶室”というインパクトのある言葉から一旦離れて見てみると、作り自体はかなりシンプル。

道具も金で作られてはいるもののお茶をするための必要最低限の物だけ。

無駄な装飾品は全く無い。

“侘び寂び=枯れている”という認識で見なければ、金の茶室もあらゆる物を削ぎ落としたある種の“侘茶”ではないだろうか。

随所に赤が入ってるのが大きなポイントで、この絶妙なコントラストはやはり千利休のアイディアではないかと。

この赤が金をより一層際立たせている(のではないかという見方もあるらしい)。

特に自然光の中で見ると金の表面に赤がヌラヌラと反射して玄妙な世界観が生まれる(らしい)。

当時は電気がない。

展示品として外から蛍光灯の灯りで見るのと、中に入って自然の採光で見るのじゃ印象はかなり違うだろう。


茶器の凄さ

名器と呼ばれる茶碗などを展示品として見ると干涸びた印象で

”これが当時なぜそこまで人気があって凄かったのだろう?”

と疑問に感じる。

そう思った美術館の人が勇気を出して実際に使ってみた。

そうして水気を含んだら”花が開いたように美しかった”なんてエピソードもあるらしい。

茶碗は茶を飲むために存在する。

道具はやはり使うためにあるのだとわかる良い話しだ。

ちなみにこういった枯れている様をお茶や陶器の世界では”かせる”と呼ぶらしい。

響きがかっこよくていつか歌詞に使ってみたい。

“かせたギター”とか。

持ち主がいなくなって埃かぶって隅っこに転がってるようなイメージが掻き立てられる。

誰かがまた撫でるように弾く。悠久の時を経て。

歌にしてみたい。


茶道具の値段

茶道具は当時からとても高価。

いや今以上に価値がすごかった。

諸説あるが物によっては現代貨幣に置き換えると何十億円もする。

ある道具はなんと国ひとつと同価値だったとか。

合戦の際に織田信長が“その釜をくれたら命は助ける”と言った。

しかし渡すのが嫌すぎて火薬を使って釜と共に爆死した武将がいたとか。

徳川家康が大坂夏の陣で大坂城を燃やした。

その際に粉々に壊れた茶入を、わざわざ土の中から拾い集めて直させたとか。

茶器にまつわる異常なエピソードはたくさんある。

ちなみにその修復された“九十九茄子”という茶入は今も現存している。

近年に研究者がX線写真を撮ってみたところ史実通りに修復跡がちゃんと写っていて

”徳川家康の言ってたことは本当だった...“

となったらしい。

江戸時代の職人の技術が凄すぎる。

それにしても手のひらサイズのお茶入れひとつが国と同価値とは凄まじい。

当時のバテレン宣教師の日記には

”マジで日本の文化は理解不能。茶器って土を焼いただけでしょ?こんなのもし自分が買うとしたら千円くらいしか出さないね。“

と書いてあったとかないとか。

“外国人には全く価値がわからない。茶道という文化は世界的に見ても異質だ。”

とも書いてあった(らしい)

まぁ日本人でも価値がわかる人は少ないだろう...。


千利休の茶道具

話しが逸れてしまったが、千利休も大名以上に道具にはコダワリがあった。

ここからがやっと本題。

今回書きたい内容。

利休について詳しく知りたい方は様々な本を読んでみてください。

残っている情報が少ないので未だにわかってない部分が多々あり、様々な著者によって色んな角度から人となりが検証されていて面白いです。

利休が切腹した場所と伝承されてたのが研究が進んだら全然違ったとか。未だに謎が多いらしい。

話しを戻して。

利休の”茶杓”というのがある。

わかりやすく言うと抹茶の粉をすくうスプーン。

これが傑作らしい。

カウンターカルチャーである”侘茶”

“不完全こそ美しい”

という考えそのままにあえて節を真ん中に持ってきてある(らしい)

それまでの時代は

“スラーッとして真っ直ぐで雅なのが最高!”

といった価値観だったところに

“いやいや竹なのだから節があってこそカッコいいだろう!”

という美学。

...茶道をやったことがないので全然違うかもしれないが。

花入れもあえてヒビが入っている状態でそのまま使っていて弟子が

”畳が水で濡れてしまいます”

と言ったら

“この花入れは漏れてこそ美しい“

と言ったとか言わないとか。

なんだかトンチみたいだが一休さんの系譜であること考えたら納得できてしまったり。

この辺りの言葉を巧みに使って自分の思う美を押し通す感じもロックンロールっぽい。


歪みとはなんだろう?

話しは脱線するがロックンロールはその成り立ちの過程で、ギターの音色は歪んでいく。

改めて

“ひずみ“とはなんだろう?

と考える時がある。

辞書を引いてみると

“物事が進行する途中で欠陥が生じること”

とある。

音楽好きの皆さんならご承知かと思うがロックンロールにはこの”歪んだギターの音色”は必要不可欠な要素だ。

ギタリストやベーシストが足元にスイッチを置いているのを見たことあると思う。

この機械を使って音色を変える。

たくさんの種類があるが代表的な物で言うと

“オーバードライブ“

は”過大増幅に陥った際に性能の限界で飽和してしまった状態”ということらしい。

つまり音を大きくしようとしたらオーバーに負荷がかかりすぎてしまったのをわざと再現するための機械だ。

ロックンロール黎明期は大きい音で演奏しようとしたらたまたまそうなってしまった。

偶然の産物だ。

現代の我々ロックンロールを演奏する人々はそれを“良い”と認識して故意に作り出している。

“ディストーション”

というのもあって、こちらもオーバードライブと似ているのだが“過大入力によってより潰れた状態”を指す。

わざとキャパオーバーにさせたあげく、その音をさらに潰しているわけだ。

“ファズ“

は名前のまま”けばだたせる“または”ぼやかす“といった機能がある。

先程のオーバーさせて潰した音をさらにぼやかして毛羽立たせす機械だ。

ロックンロールが好きではない人からしたら

“なんでそんなことをするの?”

と思うだろう。

僕らはその

“不完全で欠陥があって飽和し潰れていてぼやかされた音”

をなんらかの基準をもって

“良い音だ!“

”○○さんのギターの音色は最高だぜ!“

と良し悪しを判断している。

わざわざペダルやスイッチや様々な機械を使って歪んだ世界を創り出して尊んでいるのだ。

ふとした瞬間に

あれ?これって“侘茶”とやってること一緒なんじゃないの?

と思った。

“良いギター=クリアで透き通った音”とは限らない。

(無論それが良い場合も多々ある)

むしろ”マディでダーティーなのがかっこいい”という美学は茶器の世界と通じるものがあるような気がする。

もちろんギターの音がただ単に歪んでれば良いわけではない。

何かしらの判断基準を明確に持っている。

歪んだものの中に漂う艶とかも感じれている。

不思議な事だ。


長次郎の黒楽茶碗


ついにやっと本当の本題。

もう少しです。頑張りましょう。

千利休が愛し重用した茶器に”長次郎の黒楽茶碗”がある。

真っ黒な茶碗。

なんでも食べ物が一番映える色は黒らしい。

その情報も知らなかった。

レストランなどでは白い皿を見る機会が多いから白が良いのでは?と思っていたが実は違うらしい。

少し前に”スレート”が流行ったのも同じ理由かもしれない。

言われてみると調理器具も黒が多い。

フライパン、すき焼き鍋、鉄板etc...

白が最も見やすいならば真っ白の調理器具ばかりになるはずだ。

お茶も飲食物。

抹茶の緑が一番映えるのは黒だと千利休は気付いたんだろう。

ちなみに豊臣秀吉は黒では地味だからと長次郎の赤楽茶碗がお気に入りだったらしい。

想像よりは地味な赤色だが侘び茶の世界においてはこれは派手なのだろう。


茶道具と楽器

他には、故意に壊した釜や茶碗を修復してから使うというやり方もある。

ヒビをあえて隠さずにむしろ見せつけている。

そこが”良い”のだろう。

現代にも“金継ぎ”という技術は残っている。

ギターにも”レリック加工”と言って故意に汚れや傷を作るスタイルがある。

また長年弾き込まれて傷だらけの楽器を愛でる文化もある。

やっぱり侘茶とロックンロールは似ていると感じる。

ちなみに最初はカウンターカルチャーだった侘茶だが長い年月の間に権威化してしまう。

最初は安価な道具でやれていたはずが、それら自体が名物になってしまうことも多々あったそうな。

質素な茶室の格式が上がるなど逆転現象も起きているらしい。

その辺もロックンロールに似ている。

現代におけるヴィンテージギターとか。


黒楽茶碗の凄さ

長次郎の黒楽茶碗に話しを戻す。

円形であるが正円ではない。

歪んでいるか?

と言われたら歪んでるとも言えない。

左右対称でもない。

稚拙にも高尚にも見える。

曖昧である。

しかし、そういってしまうにはあまりに強靭。

つまり肯定と否定が共存しせめぎ合っている。

完璧ではないが不安定でもない。

と相反する混沌とした要素の中で、しかし物として確かに存在している。

僕のような茶道に疎い門外漢には黒楽茶碗の凄さをしっかりと理解する事はできないが言ってることはなんとなくわかる。

で、これは人によって表現された作品なわけで作者がいる。

長次郎さんだ。

凄さについてある人が言うには

“どうして手を止めることができたんだろう“

と。

ろくろを回して作るのとは違い、泥を手で捏ねて整形する。

もちろんやりすぎてしまったらダメだ。

しかし不完全の美に答えはない。

何を思ってどう考えてここで完成と手を止めたのだろう。

引き算の美学。

それが凄いねと。

音の場合は陶器のようにやり直しが効かないってわけではないので、ああでもないこうでもないと好きな音、最高の音を求め試行錯誤を繰り返す。

ギターもベースもドラムもボーカルも。

その作業に終わりはない。

なにかを”表現”する場合、色んな苦悩や葛藤がある。

特にロックンロール誕生から半世紀以上が経った現在新しいなにかを生み出すのは非常に困難だ。

千利休が侘茶を広めたときのようにカントリーやブルース、ソウル、ジャズから始まってロカビリー 、サイケデリック、フラワームーヴメント、ヘヴィメタル、プログレ、パンク、ニューウェーブ、、、と多種多様なやり方でロックンロールは転がり続けた。

音楽に例えるならば村田珠光はロバートジョンソン、武野紹鴎はチャックベリーやリトルリチャード、千利休はさしずめビートルズといったところであろうか。


生きるとは?

今回、千利休を知ってまた自分の年齢や活動を加味してもっと踏み込んでみると”生きているってなんだ”というような根底にぶつかる。

それは、そこで生まれる矛盾を抱えてなお存在するということ。

“不安定だけど確かに在る”

というのが人間的で表現の大事な部分なのかなと思った。

とても難しくてよくわかってはいないが。

僕の好きな映画キャデラックレコードで

”ブルースは不条理なんだ“

というセリフが出てくる。

禅の世界でも”悟り”というのは悩みが無くなることではないらしい。

そこも僕は勘違いをしていて悟るというのは

“諦める的ネガティブ”

もしくは

“全てが満たされていてスーパーマリオのスター状態”

もしくは

“欲が全くない状態”

とか。

それぞれ全く意味合いは違うのだけど...そういった事だと思っていた。

実際には

“より強くなった魂で色んな悩みにぶつかれるようになった、またはなろうね”

ということらしい。

ブルースも苦悩を歌っているが、ただ悲観するわけではなく根底には生きる力強さがある。

それは例えばBBキングのあのチョーキング!のようにやはり引き算の美学なのである。

現代の茶道は400年後のロックンロールなのかもしれない。

だったとしても、そんな後のことは知ったこっちゃないんだけど。

ブラザー&シスター、不完全でいよう。

今回も最後まで読んでくれてありがとう。

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