2年の月日がもたらしたもの 再訪 英国

そもそもこのNoteへの寄稿も2年ぶりだ。2年ぶりに英国を訪れている。そしてすでにテクノロジーの進化と情報量の洪水の中で溺れかけ、「老い」という現実をまのあたりにして辛くなっている。

便利になった。それはそうだ。だからこそ国と国との境界を感じることが格段に少なくなり、この何十年こっちの国にいた、又は来た時に感じた感動や不便さまでも、平坦にならされてしまって、怒りや喜びが極端に少なくなった。

例えば、こちらに来た時にしかできなかった事
・TV番組やCMを見てなつかしがる(日本にいながらにして見ることができるものが多くなった)
・日本では購入できなかったものを買う(極端にそういったものは減った)
・和食を食べたいのに食材が手に入らないと感じる(昨今の和食ブームで、スーパーのアジアコーナーで許容範囲の基本的な物を買うことができる。どこにでも寿司っぽいものはあるし、なんちゃってレストランチェーンはそここにある)
・日本と連絡をとるのが大変不便と感じる(もうこれはSNSが出たあたりからは長いが、ここ2年のその簡単さへの変化は格段だ)

これらができる事は決して悪いことではないのだが、寂しさを感じる。「この期間はできないのでご容赦ください」、が無くなったために、やらなくてはならい事を旅の途中でやるはめになる。

しかしながら、自分の感情が、世間のせいではなく、完全に年を重ねたから変わったのであることはしっかり自覚しているし、いたしかない事実であることに変わりはない。

それでも前回は、やらなくてはいけない事のために、コロナの中たくさんの手続きを経てようやくたどり着き、制限され、がまんしてがんばった感があったので、それを感じずにいたのかもしれない。

自分も衰えた、容姿も体力も特に視力も。老眼鏡なしでは生活できないのが最たるものだ。気力さえも衰えて、まっ、いっか、で片づけてしまう事が多い。電車やバスが極端にダメな不便さとか、じろじろ見るなよこのボケっ、Upper Middleの慇懃無礼さ、物価の高さなどなど。怒りを覚えない。

知人たちを再訪するとことごとく衰えている。それは悲壮感ではなく、老後を楽しんでいるのだけれど、皆この2年で容姿が激変しているのがとても印象的だ。年齢的にもそういう時期なのだが、急速にとか加速している、といった感覚だ。つまり自分たちもそうなのである。皆が最後をどう生きるか、で環境を変えている。自分たちも含め、世代が変わっていき、あったものが無くなっていく。

こちらと関係を持って早30数年、走馬灯を高速回しして眩暈がしている。

以前は来る前に入念に必要なものを用意してから臨んでいたものが、ざっくりになり、さっき、あああ忘れた、と思ったものが箸。料理する時に箸がないってなんて不便なんだ。

これも、やはり滞在する家がなくなって、借りて住まなくてはいけないことにも由来している。この何十年で必要と思うものはもう置いてあったのだから。下着や洋服までもあったので、用意に真剣でもなかった。

これからの滞在で自分の変化を自信で観察してみようと思う。

と思って入力している自分の手を見ると、しわしわでおばあちゃんっぽかった。これだ。




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