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妙齢のひとりごと(私を一番理解していないのは私でありながらも、理解することが必ずしも幸せかどうかはわからない。)

妙に長いタイトルをつけてしまった。自分のことを理解できていると言えるひとはどのくらいいるのだろうか。誰よりも一番長く付き合っているはずなのに案外とわかっていないのが自分自身なのではないだろうか。よく「自分を知る」といったような本や情報などがあるが、本当に知るべきなのだろうかよくわからない。

私が感じている自身と第三者が思う私の印象は思った以上に相違している。私が知っている自分の顔は鏡に写った姿であり生まれてから一度も私を「直接」見たことがないのだと改めて気がついた。

写真や映像を見ると「あれ」っとがっかりすることがあるが、このがっかりの姿が第三者が感じている私の姿であり。私が私だと信じている「鏡」の私はこうありたいという願望をまとっている。だから第三者から見た私を知るとがっかりする。これは外見だけでなく内面も同じかもしれないが、「内面」は自分も含めて誰もが直接見ることはなく何が正解でそうでないかがわからない。

やさしい

見た目のゆるゆるな雰囲気や話し方からそう言われることが多い。しかし本当にやさしいのかと言われればよくわからない。そう思われるように振る舞っていることは自覚しているし、また時々心の中で舌打ちしていることもある。

あまりに近すぎると見えない。私の場合「大人のおめめ」いや老眼といったほうがわかりやすいと思うが、あまりに近づけすぎるとぼやけてしまいある一定の距離でないと見えない。よく人との距離感の話であまりに近づきすぎてはいけないと言われているが、自分自身との距離感がなさすぎて客観的に見ることができず、幸せな妄想することはまさしくそれだろう。また自分に甘く人に厳しくなってしまうのもそれが原因と思うが、だからといって自分と大きく距離感をとってしまうことは幸せなこととは言えないような気がする。時には自分を振り返ることは必要だと思うが、見て見ぬ振りをしてすごしたいときもある。普段なかなか甘えられない私はせめて私自身に甘えたいと思う。だから、外見も内面も「何割か増し」で過ごしてもいいと信じたい。

ただ、時々は自分のことを客観的に見て現実を知ることは、大人として生きている以上必要なことと知っている。知らなくてはいけない自分と知らなくていい自分とがバランスよく過ごせることが、快適に生きるにつながるのかもしれない。