普通にしんどいって言わせてくれ

 NHKの『逆転人生「貧困の連鎖を断て!西成高校の挑戦」』を見た。以下番組HPより引用。

親から子への「貧困の連鎖」が問題となっている大阪・西成。この地域の子どもが多く通う府立西成高等学校はいま、学びを守ろうとする先生たちの取り組みが熱い注目を集める。その名も「反貧困学習」。生徒が貧困と向き合い、そこから抜け出すための具体的な術を学ぶ特別授業だ。深刻な教育困難校だった西成高校は、この授業をきっかけに非行や中退が激減し生まれ変わった。驚きの授業風景、そして先生と生徒の涙の逆転を描く。

 教育社会学をかじって、教育格差についても少し勉強したので、思うところは多々あった。高校の先生は中流以上の家庭の出身者が多いため、進学に価値を置いてしまいがちですが、生徒の現実と向き合った取り組みが行われていたことに感銘を受けました。

 「反貧困学習」は、生徒たちが自分の置かれている状況を理解するところから始まるらしい。地域の特性もあって、貧困が「あたりまえ」の環境にいる生徒たちは自分の苦しみを表現することもできないのだなあ。
 というところから、『世界の悲惨』の冒頭の文章を想起しました。

「社会は表立って表現されることのない苦しみであふれている」(ピエール・ブルデュー『世界の悲惨』) 

 貧困や育児放棄のような誰がどう見ても苦しい状況はもちろんだが、そうでなくても日々の生活に苦しさはある。そして、普通の人も普通にしんどいって言える社会であってほしいと思う。生活に困らない人間の苦悩に目が向けられることはあまりなく、声をあげることは嘲笑や非難の的にもなる。
 だけど、どんな環境にあっても、どんな時代にあっても、生きていくことは時に苦しいものである(「四苦」は「生老病死」、「生」はすなわち「苦」なのですから…)。その苦しみとともにあることが、人間らしく生きるということなんじゃないかとさえ思う。

 衣食住に困らなくても、親に愛されていても、普通にしんどい時はある。それを甘えだと切り捨てるのは簡単だけれど、そういうしんどさは社会の構造的な暴力や矛盾に起因している場合もあるのだ(私の場合はただの怠慢であることも少なくないけど)。
 だから、一見身勝手で個人的なしんどさを、個人の問題に帰すのではなく、外に向けて問うていくことは重要な作業だと思う。

 要するに、普通にしんどいって言わせてほしいし、他者の普通のしんどさを感じ取れる人間でありたい。そして、それを甘えだと思わせてしまうような、社会の「正しさ」なるものに対しては、常に「ほんまかいな」という程度の疑いの目というか余裕をもって対峙していきたい。

 番組の主旨とはズレますが、そのようなことをテレビを見て思いました。暇か。


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