創作)Alice’s
「□□ーー!!」
あの日から何度も繰り返し見ている夢だ。
「□□...!」
歩道に乗り上げ、白煙を上げる赤い乗用車。前輪の下にかろうじて見える、長い
黒髪。それを伝うように地面に広がり、側溝へと流れていく赤黒い液体。
僕の初恋の女性。
最期の声も聴き取れぬまま、
ーーーーーーー彼女は、この世を去ってしまった。
あの事故からもう10年になる。時の流れは平等で、ひどく残酷だ。僕はもう、彼女の声も、温度も、どんな顔をだったのかさえも思い出せない。すべてを忘れてしまった。
目の端で涙が乾いている感覚。
最悪な目覚めだ。窓から覗く晴天ですら鬱陶しい。
「あ、起きたね!マナツー!おはよー!」
朝っぱらから部屋の入口で天真爛漫に叫ぶ少女は"ナリ"。僕の幻覚だ。初めて見たときにはひどく驚いたものだが、もう7年も一緒にいる。慣れたものだ。
やかましい存在のせいで完全に目が冴えてしまった僕は仕方なく起き上がり、洗面台の前に立つ。いつもと変わらず、冴えない顔をしている。顔を洗い歯を磨き、見る価値もない自分の顔を再び鏡で確認したのちに部屋に戻ると、彼女はベッドの上でぴょんぴょんしていた。
天気は快晴。まだ少し肌寒いが、心地いい日和だ。ベランダに布団を干し、少し強い風に飛ばされないよう固定して、散歩にでかける。
靴を履いて玄関から一歩を踏み出した瞬間に、一日の運勢が決まる。なんとなく調子がいいと感じたときは一日なんとなく絶好調で、反対になんとなく調子が悪いと感じたときはなぜか一日不調に終わる。
さてさて今日の運勢は、ーーーーーいつもより足取りが軽い気がする。絶好調だ。ついつい鼻歌を口ずさんでいたらちょうど出てきたお隣さんと目が合う。ばっちり聞かれてたようで少しだけ気まずい。ちょっとだけアンラッキー。
今日は学校もバイトもない、だからといって寝て過ごすのはあまりに勿体無いとてもいい日。樋井川に沿って歩きながら春の訪れを感じる。熊本の田舎から引っ越してきたばかりの僕にとって、樋井川の流れはどこまでも泥水だ。でも、高いビルとアスファルトに塗りつぶされたこの町では希少な自然。川沿いに青々と繁る名前も知らない草花、風邪鼻でちょっとばかりお顔が残念な猫。そして、春を楽しむ僕の鼓膜を叩くやたらと高い声。
「ねーねーねーね!今日はどこ行くのー?」
「わはーー、猫だよ猫。にゃんにゃん!」
「無視しないでよマナツさんやーい!」
「はっ、もしかして噂の難聴系男子ってやつ?」
部屋を出た瞬間からというもの間髪入れずに延々と喋り続けている。所詮は幻覚のくせに、どこまでもやかましい奴だ。これ以上無視を続けても幻覚|の声は決して止まないということは身に染みてわかっている。そして、ひたすら無視を続けた先に恐ろしい段階が待っていることも。幻覚と喋ることにした。
幻覚の存在が広く知られるようになったのは20XX年6月。今からちょうど10年前だ。かつてはネット上で「鏡の中のアリス症候群」として囁かれていたが、ある日を境に罹患者の報告が爆増。
幻覚といえど見え方は人それぞれで、過去のトラウマが具現化したようなものであったり、アニメのキャラクターがそのまま写したようなものであったり、失ったペットや家族の姿をしていたりするらしい。
当然、幻覚が日常生活に与える影響もさまざまである。幻覚から逃げられないストレスから自殺した人もいれば、幻覚を神聖視し宗教を興した人もいる。
かつてネット上で都市伝説のように語られていたそれは、いつのまにか日常になっていた。
「マナツ君は、今日は何をして過ごす予定なのかね?」
「休みだし、家でごろごろしながらバイオRe2でも進めようかn
「だあぁ勿体ない!せっかくこんなにイイ天気なんだぜ?青春をしようよ青春を!」
「青春って、例えば?」
「例えば...私、海行きたい!海行こうよ、海!」
「海っていっても...まだ4月だよ。何しに行くの。」
「それはもちろんおよg
「さすがに泳ぐなんて言わないよね?」
「え...ぇあ、ぁのですね...」
「ま、いいか。なんか僕も行きたくなってきたし、行こうか。海。」
「いえい。そうこなくちゃ!」
...青春なんて、僕には縁遠い単語だ。背が低いことをはじめ自己肯定感が低い僕はいわゆる陰キャというやつで、人と関わることはとっくの昔に諦めている。
幻覚の存在はもうとっくに生活の一部であり、幻覚から離れようと無視してみたりしつつも彼女と離れたくない自分の本心にも気づいている。
ナリは僕にとって愛すべき何かのカタチをしていて、愛すべき何かの声で喋りかけてくる。
たぶん恐らくきっと、否、確信を持って言える。
君は、僕がかつて喪った、僕がかつて愛した彼女の姿をしているのだろう。
そして、僕が彼女を思い出したとき、君は消えてしまうんだろ...?
「ナリ。そろそろお昼なんだけど、何が食べたい?」
彼女のいる方に、本当は何もいないのであろう空間に話しかける。
「お、なんだなんだ。さっきまで無視してたと思ったら突然優しくなっちゃって。そうだなー。あ、お寿司なんていいんじゃない?たまには奮発して回らないやつ!」
「お、いいね。さすがナリ。僕の性格をよくわかってる。じゃあ今日のお昼は松屋で牛めしにしようか。」
「んん?いや牛めしじゃなくておすs...」
「いやー、意見が合うのってすごく気分いいよね。やっぱナリ様サイコーだわ」
「なんでそうなるの......おすし...。」
今日のお昼はナリの意見により満場一致(異論は認めない)で松屋の牛めしに決定。
安くて美味しいとか、最強かよ。だって<牛|ぎゅう>だぜ?近くて便利、やっぱ松屋だよなー。
ナリの異議申し立てをねじ伏せながら歩くこと20秒足らずで松屋に到着。入口で食券を買って壁際の席に腰を下ろす。
番号が呼ばれるまでSNSの海を漂流しようかと携帯を取り出すも、すぐに片付ける。隣には彼女がいるから。
僕の食事は彼女の食事。僕の健康状態が幻覚であるナリの健康状態に直結する。僕が健康である限り彼女もまた健康であり、僕が幸福を感じるときは彼女もまた同じ幸福を共有している。
どこまでも可愛らしい彼女。でも全ては僕の妄想であり、願望でしかないということを僕は知っている。
でも、この幸福が続くのならばこのまま永遠に夢の中にいたい。
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