過去について語るとき、電車の中で思いついた話。

私は雪の積もった街を見ていた。レールが軋み、弱々しい日光が頬を暖かくする、そんな早朝の電車。そして思い出す、過ぎ去ったあの日々の夢を、その結論がわかってしまった地点から。
 夏のことだ、私は茹だるような気温の部室にいた。いつもの練習や雑談、そんな日常的で得難いような幸福感を、漫然と過ごした日々だった。これは穿つ後悔が幕を開ける話だ。
 僕は、電柱を数える。50hzをながすその線は、ただ右から左に、或いは少しの熱を帯びながら生きている。おそらく、もっと先、人生に冬があるとしたならば、私は電柱になっているだろう。でも今は、その中間点、白秋の刻。だから春と夏を、夢と現実を思い出そうとしているのだ。
 先輩は僕に何かを話しかけた。それがどんな言葉で、抑揚で、感情だったか、今となっては断片すら思い出せない。その夏は光をはらんでいた。
 駅につく、通過点でしかないその土地に、僕は少しの憧れを覚える。通過点で終われる物語があったならば、それはきっと最高のハッピーエンドだろう。すべてが手遅れな最後を迎えなくて済むのだから。
 その先輩は幸せな顔をしていた。間違いはなかった、根拠はないが自身はある、それは私も同じだった。愚かさと勇気を持ち合わせていたのだ、しかし明白な陥穽に気づかないほど愚かだと、思いもしなかったのだろう。彼の言葉を借りるならば、「人間ってのはすべてを手中に収めながら、それをみすみす逃してしまう、それももっぱら臆病のせいで」というべきだろう。
 終点は近い、この物語、区切りをつけるにはうってつけだ。新芽も、夏草も見えない地点こそ、間違いに気づけないような、偽りの過去を語るには。
 その夏は嵐のように終わった。それは充実した秋をもたらし、感傷などを感じるヒマもなく雪は溶けた。気づいたときにはすべてが終わっていた。言えないままの言葉で、癒えない傷を追っている自分に気がついたときには。
 ああ、終点についた、空は晴れている。だれかが夢を見ているならば、私は言いたい。それを夢で終わらせないように、と。

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