祈り

ローマ法王が日本を訪れている。

それで「ローマ法王になる日まで」という映画の事を思い出した。
この映画は若き日のフランシスコ法王を描いた物語だ。

今の法王である方がどんな半生をおくってきたのかを伺い知ることができる貴重な映画だ。

ただし内容は爽やかな感動を残すお話では決してない。
むしろ人と人の対立、軽く扱われる命、そういった世界の不条理な現実を描いている。
そして次から次へと起きる問題に淡々と対処していく、フランシスコという人物を撮しているドキュメンタリーの様なお話だった。

その映画の影響もあり、法王が原爆の地である長崎、広島で祈り、東日本大震災の被災者へ祈る姿をテレビで拝見して、荘厳で慈悲深い本物の「祈り」を見たような気がした。

「祈り」とはなんだろう。
ずいぶん前から、ふと考える事がある。

人はこの世に生を受けた時から、自分ではどうすることも出来ない運命に飲み込まれる経験を余儀なくされる。

生きる意味を奪われ、それでも尚生きていかなければいけない苦しみは、絶望という形で心を蝕む。

どうしたらよいのかさえ分からず涙さえ渇れて、何かにすがろうと必死になる。

そんな時、孤独の中で「かなしみ」の歴史に出会う。

それは戦争、災害、公害といった人間らしい生活を奪われた犠牲者、終わりのない病を背負った者達の嘆き。虐待の連鎖に、貧困、差別、そして不可避である死。

目を凝らせばキリがないほどの「かなしみ」が地上には溢れている事に気づいてしまう。

ほとんどの人はそれらを知った後、「かなしみ」から距離を保ち自分の人生を立て直す為、現実の社会へ戻っていく。

そんな中、僅かにそこに留まり、自分の「絶望」をこの世界の「かなしみ」と結んだ人たちがいる。

その結び目には深い無力感と言葉にならない慟哭が込められている。

紹介した映画の中に「結び目を解くマリア様」が出てくる。

生きるという事は、絶望とかなしみの結び目をつくり続ける事かもしれないが、その結び目を解く者に委ねる事でもあるのかもしれない。

私という存在の圧倒的な無力さを知った時、祈ることができるのではないのだろうか。

無力さから目を逸らさず、世界のかなしみを見つめ、それでも私は救いと光を求めたい。

それがわたしの祈りです。

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