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美術室の裏で

高三の夏にやっとデッサンを始めた。担任の先生に5回目の「私はドイツの美大を受験します」を言った日に、やっと彼は油をさしたロボットのように動き出して私と一緒に職員室中の教師たちを回って「よろしくお願いします」と頭を下げさせた。私はその行事を、”彼のため”にしたようなものだ。(何に対しての、よろしくお願いします。なのかとんと見当がつかない)

最後の1人に挨拶を終えた私は、本当に嬉しくてにやにやしながら鉛筆とスケッチブック抱えて美術室に向かった。

美術室には奥に埃っぽい準備室があって、そこで石膏像に囲まれながら毎日絵を描いていた。6年間通った美術室だったけれど、そんな部屋が隠されていたなんてその時まで全く知らなかった。

放課後の補習も終わり、みながそれぞれの自習を始める頃、こっそり抜け出して1人美術室に向かう。壁と同じ色で塗られた扉(しかし下はぽっかり開いているので、先客がいればそこから漏れる光ですぐにわかる。)を押せば友だちが持ち込んだパソコンでyoutubeを観ている。彼女はいつもゆっくりしたインターネット声で語られる怖い話を聴きながら漫画を描いている。『専門学校みたいなもんだから、試験もあってないようなもんなんだよ』って言っていた、彼女がちゃんとデッサンしているのを私は見た記憶がない。

私はイヤホンつけて、テルーの唄を聴きながらぶどうの絵を描いていた。プラスチックでできた、乾燥しててツヤツヤのぶどう。最近は魔法瓶に紅茶をいれて持ってくるのにはまっている。(ときどき黄金糖も溶かして飲んだりしていた。)ゲド戦記は映画としては最悪だった記憶しかないのだが、挿入歌が本当に好きで、デッサンしているときはいつも手嶌葵さんの歌声を聞いていた。

全然まじめに絵を描こうとしない友達にうんざりして、少し意地悪に「怖い話ばかり聞いてたら、周りに幽霊が集まってくるんだってよ、」と言った。ら、彼女は次の日にコンビニで食卓塩を買ってきて自分の頭からふりかけていた。友達はふざけているわけでもなく、当て付けでもなく、純粋に私の言葉に不安になってお清めしているのだ。

紺色の制服に白い点々がついてまるで半透明のフケのようだった。彼女は本当にいいヤツだな、と思う。

もう1人の友達は、いつも石膏像のデッサンをしていた。彼女は私が出会った子の中で絵が抜群にうまかった。そして私にいろんな曲を教えてくれた、それらは優しい歌声しか知らない私の脳みそをしっちゃかめっちゃかにした。最初は違和感しか感じなかった音たち、憧れの彼女に近づけるような気がして毎日聞いていた。

準備室はすごく冷えたので、石油ファンヒーターが常に炊かれていた。美術の先生が時々やってきては、ドバドバこぼしながら灯油を補充した。部屋に立ち込めるツンとした匂い、引火するんではないかと気が気でなかった、いつもあっという間に乾いて床はサラサラになったけれど不安の匂いはいつまでも漂っていた。

今でもテルーの唄を聞くと、甘い紅茶の香りが立ち上ってくる。部屋があたたまるまでコートも脱がずに白い息吐いている18歳の自分。あの準備室での一ヶ月だけが、不思議に分離して記憶の中で漂っている。




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