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24「邪馬台国」to「柳田國男翁」!!Yay-全体ビュー2000突破!!Thank you very much!!


 乳母ga、藤三位 ええーッ!!                              「つらつらと、うき世の中を思うには、まじらざるこそ、まさるなりけれ」この詩は、先に紹介した「慈恵大師七猿歌」第1段でした。(写真 妙徳寺)〇卑弥呼の父(埴岡寂諦) sakurako_saku・・・・、          左横〇をクリックすると全体表示となります。次に写真をクリックで全文表示。

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 藤三位 藤原繁子 (ふじわらの-はんし)                                   枕草子    其の壱  第百三十一段                        円融院(えんゆういん)の御(おほむ)果ての年、みな人、御服(おんぶく)脱ぎなどして、あはれなることを、おほやけよりはじめて、院の御事など思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位(とうさんみ)の局に、蓑虫のやうなる童(わらは)の大きなる、白き木に立文(たてぶみ)をつけて、(童)「これ、たてまつらせむ」 と言ひければ、「いづこよりぞ。今日・明日は物忌みなれば、蔀(しとみ)もまゐらぬぞ」 とて、下(しも)は閉(た)てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは、きかせたまへれど、(三位)「物忌みなれば、見ず」 とて、かみについ挿しておきたるを、             円融院の諒闇(りょうあん:喪)が明けた年(正暦三年-992)、人々は皆、喪服を脱いだりして、しみじみした気持ちで、朝廷を始めとして、故院の御思い出などにひたっている頃、雨がひどく降る日、藤三位の局に、(雨具の蓑で)蓑虫のようになった少年の大柄なのが、白い木に立文を結びつけたのを持って、(童)「これを、差し上げたいのです」 と言うので、「いづこよりぞ。今日・明日は物忌みなれば、蔀(しとみ)もまゐらぬぞ」とて、下(しも)は閉(た)てたる蔀より取り入れて、「さなむ」とは、きかせたまへれど、(三位)「物忌みなれば、見ず」 とて、かみについ挿しておきたるを、                                                                                                   【清少納言の出仕が正暦四年(993)であるから、その前年の出来事。
 中宮からの伝聞(打聞き)を記録したものらしい。この藤三位繁子さんに対しては、清少納言さんは、あまり良い印象を持ってはいないようです。

栄花物語「世の響き」
 中宮は若宮(=敦成親王)が東宮になることが決まったことを、普通の人でいらっしゃるならば、言うまでもなくうれしくお思いになるはずだが、「一条天皇は兄が弟よりも優先される(第一皇子の敦康を東宮に)ということにとお思いになっているだろう。
 あちらの宮(敦康親王)も、そうはいってもやはりそのよう(自分が東宮になる)だろうと思っていらっしゃるであろうのに、このような世間での評判のために、(天皇は)予定を変えて(敦康親王を東宮にと)心にお決めになったのであろう。
 そうはいってもと(敦康親王は)お心の中で嘆かわしく心穏やかでないことだと、この事をお思いになっているだろうから、とても心苦しく気の毒で、若君はまだとても幼くていらっしゃるので、自然と前世からの因縁に任せているのがよいのに。」などとお思いになって、殿(父藤原道長)にも、「やはりこのことはなんとかしてそうならないようにしたいものだなぁと思っています。

藤三位   藤原繁子( ふじわらの-はんし)
 平安時代中期の女官。平安中期の女官。藤原師輔の娘。はじめ円融天皇女御藤原詮子に仕え、天元3(980)年、懐仁親王(一条天皇)の乳母となる。
のち寛和2(986).7.16典侍,従三位
 藤原道兼との娘尊子を、一条天皇女御とする。のち平惟仲(これなか)と再婚。長保3(1001).6典侍を辞し、夫・平惟仲と共に大宰府に下向
 寛弘7(1010)頃出家 享年61好明寺に隠棲した。寛仁(かんにん)3年(1019)まで消息がある。

 この藤三位藤原繁子(ふじわらの-はんし)は、神積寺の創建に多大な影響力を及ぼした人物です。
 神積寺の由緒に大きく影響している峯相記、一条天皇の乳母(天元3(980)年)は、従三位藤三位といわれるほど政務への影響力を持ち、一条天皇三条天皇の勅願寺とて神積寺を創設した。
 神積寺三条天皇第七皇子(猶子)覚聖を、慶芳上人の弟子として神積寺の寺務にあたらせた。
 ここで注意すべきことは、大鏡では道兼の子福足氏は死んだと書かれているが、その文章を信じると神積寺の由緒は霧の中となるのです。     
 大鏡全般を読んでみますと、どこか多くの嘘が述べられている。
 三条天皇第七皇子覚聖は、道兼の子福足で天台の四哲となるのです。
 峯相記では覚聖、神積寺の由緒では覚照、天台の四哲では覚超となり正しくは、天台の四哲「覚超」となるのでしょう。

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 当国田原の庄、有井村に一泊しました。この時、夢の中に身分の高い僧が現われ、枕元に立って次の様に言いました。『この東の山は佛法繁盛の地です。東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わり四神相応の地となっている。汝が来るのを今まで待っていたのだ。早速、寺を建て薬師如来を安置せよ。我は妙徳菩薩の化身(応化妙徳菩薩)なり』と。
 霊夢に驚いた慶芳上人が改めてこの地を見ると、誠に素晴らしい土地だったので伽藍を建立しました。かの範郷(はんごう)の妻が両天皇の乳母だった縁から当寺を勅願寺に申請しました。綺麗に創作されていますよねー。    実際は、花山天皇の隠居、一条天皇擁立、泥臭い政権争い。妙徳寺の創建、まったくの「夢物語」、園田天光光婆「へこたれない文学」となるのでしょうよネー。❓❓

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