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31「卑弥呼」to「柳田國男翁」to「邪馬台国」!!「あはれにぞ・・・」!!

安喜門院大弐「あはれにぞ つゆのゆかりを たづねける きえにしあとに のこることのは」!!   続古今集 巻十六:哀傷  01444
 少将内侍人にさうしをかかせ侍りけるを、内侍みまかりて後 ゆかりをたづねてつかはし侍りければよめる。」(写真 文殊堂・現岩尾神社)

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 この地の歴史を、語る上で非常に大切な事柄があります。
 それは安喜門院尼僧が、安嘉門院所領のこの地に隠匿されるにあたり、その地を事前に調査するべく事柄を運んでいたのですがうまくいかず、自らがこの地を直接に訪問して調査したが、言の葉のみが残っていて、その地の歴史や云われ等については、何一つ痕跡がなかった。
安喜門院大弐
「 あはれにぞ露のゆかりをたづねける 消えにしあとに残ることのは 」は、この事実を詠んだ歌となるのですよねー。
 このような経緯から推察すると、この地に燦々と残されている石碑群(石造五重塔(伝慶芳上人墓)埴岡土佐守寅次郎夫婦の五輪塔・悟真院の宝塔(石造宝塔残欠・暦仁2年・1239) 阿弥陀種子板碑(1286)は、この安喜門院尼僧(1246出家)の竟の思いを世に残していることになるのでしょうねー。

安喜門院大弐
―続古今集― 8  哀傷歌  安喜門院大弐
少将内侍人にさうしをかかせ侍りけるを、内侍みまかりて後、ゆかりをたづねてつかはし侍りければよめる。 
( 侍=はべる 少将内侍=内裏に内侍として出仕した女性の女房名 )
 「 あはれにぞ露のゆかりをたづねける 消えにしあとに残ることのは 」(一四四四)
 この歌は安喜門院が、将来安住するであろう妙徳山神積寺の調査を、少将内侍という人に託したのであるが、その人が死んでしまったので、自分自身で神積寺を訪問した。
「古事・ゆかり」は全て消えてしまって「言葉だけ」が残っていた。ということを歌っているのでしょうねー。
 安喜門院の下向に際しては、文殊堂(文殊菩薩像)の造営や石造五重塔(伝慶芳上人墓)・埴岡土佐守寅次郎夫婦の五輪塔・悟真院の宝塔(石造宝塔残欠・暦仁2年・1239) 阿弥陀種子板碑の造営も、この時期このような思いから造営されたものと推察するのですがいかがでしょうかねー。

( 安喜門院大弐[玉葉] )
「かからずは 何か別れの惜しからむ なれぬるばかり 悔しきはなし 」    
文殊菩薩像は、鎌倉時代の無垢な愛らしさと万物への慈しみと言う宗教的境地が感じられ、時期的に見て慶派仏師、湛慶(たんけい・承安3年(1173年)- 建長8年5月19日(1256年6月13日)か康円の作と感じられる。
また文殊会式は、安喜門院(後堀河天皇の中宮三条有子)の命日の法要行事が始まりとなるのでしょうかねー。

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木造文殊菩薩坐像(町指定重要文化財)
本尊薬師如来の脇仏として祀られ、高さが51.3cmあり、腹前で法界定印を結んでいる。ヒノキ材で造られ、目は玉眼、肉身部は粉溜という技法が用いられており、南北朝時代の所産と考えられている。本躰とその台座や光背さらに飾りに至るまで当初のまま残っている。
明治以前は、文殊堂といわれた岩尾神社に文殊菩薩が祀られていたと考えられ、この仏像がそうではないかと言われている。美術工芸品としてもすばらしい仏像であるが、地域の歴史を知る上でも欠くことのできないものである。

    正暦二年(991年)三月八日、当国田原の庄、有井村に一泊しました。この時、夢の中に身分の高い僧が現われ、枕元に立って次の様に言いました。『この東の山は佛法繁盛の地です。東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わり四神相応の地となっている。汝が来るのを今まで待っていたのだ。早速、寺を建て薬師如来を安置せよ。我は妙徳菩薩の化身(応化妙徳菩薩)なり』と。                この伝承文と妙徳寺(妙徳=文殊菩薩の別称)の名前で、創建当初から、文殊菩薩は祀られていた。と思い込んでしまうのでしょうねー。       「寺を建て薬師如来を安置せよ。」この寺は「薬師如来」を祀り、守護神は「山の神・六御縣座主命神」元岩尾神社北隅に「六所宮」祭祀。この妙徳寺の守護神「山の神」が、「卑弥呼」接続への、最大のポイントとなっているのですよねー。

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田原荘 安喜門院領

 問題は中納言典侍瑞子と公房の関係であるが、『平家物語』では「阿波内侍」とも呼ばれる瑞子の父を信西入道とするものとその子貞憲とするものがあるというが、『玉葉』の記事により前者であることは確実である。母は後白河天皇の乳母であった藤原朝子とされるが、信西と朝子の子達の生年は一一四〇年±五年である。
 本ブロクでは瑞子の生年を平治の乱前後としたが、その母の生年は朝子の子達と矛盾しない。そうすると、母の同母兄弟脩範の子範能は瑞子の従兄弟となる。
 その範能の子修子が公房との間に有子(安喜門院)を生んでいるが、その誕生は建永二年(一二〇七)年で、建久四年の一三年後である。ただし、範能の子範海が公房の養子に入っている。範能の生年は不明だが、仁安二年(一一六七)正月に叙爵しており、従姉妹である瑞子より一〇歳程度年長(一一五〇年頃の誕生)であろう。範能は建久三年一〇月二六日に大宰大弐を辞任した。出家こそその四年後だが、建久二年一〇月に辞状を提出していた。何が言いたいかというと、よくあるバターンであるが、晩年の子である範海と修子を三条公房に委ねたのではないか。
 その代償が瑞子からの多紀庄一方の譲与であった。成長した修子が有子を産んだ時点で公房は四一歳であった。瑞子から公房に多紀庄が譲られる背景としては、以上のことぐらいしか指摘できないが、公房の母が経宗の娘で、大炊御門頼実の姉妹であったことも影響したと思われる。頼実は一一五五年の生まれで、その姉妹が公房を産んだのが一一七九年であることから、両者は年の近い同母兄弟姉妹であったと思われる。
 瑞子領の内、播磨国田原庄は、瑞子の義理の兄弟である有通の嫡子有教に譲られ、丹波国多紀庄一方(泉村=北方)は瑞子の母方と関係が深い三条公房に譲られた。最終的には両方とも九条家領となったが、その経過は文書の残り方が違うように、異なっていた。西谷氏の論文では田原庄の碑文には言及されていなかった。この碑文により、田原庄が安喜門院領から九条家領になったことが証明できる。                            冒頭では田原荘は安嘉門院所領と述べているが、田原荘が安喜門院所領となっているのですよねー。                             だから「文殊堂の建設」安喜門院が創建。と言えるのですよねー。


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