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「卑弥呼」ファン集まれー!!(5)  「六所社」祭神「阿遅須伎高日子尼命神」   宮室樓觀城柵嚴設への辿り

 

    私は、1558年「神積寺」有馬法師により「再建」、有馬法師は誰なのか❓❓「有馬顕頼公」までへの到達に「10年余の歳月」が掛かり、また「六所宮」までへの到達には、それ以上の歳月が掛かっているのです。

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 時には誤った学説だらけの「卑弥呼」「邪馬台国」、書物・文献のみからの意見などは「屁のカッパ」となるのでしょうねー。2000年からの地域「古史」の研究、「安喜門院の歌・唐橋中将の子に・・・」「 あはれにぞ露のゆかりをたづねける 消えにしあとに残ることのは 」などの繋がりの中から「瓢箪から駒」「カッパが出るぞー」から「卑弥呼が出たー。」    ただ、それだけの話。「神積寺之図」は焼失後の絵図(1309年消失・正和4年(1325年)絵図・妙徳山全景)。「旧文殊堂絵馬・文殊祭礼図」も、文殊会式中断後の「絵図」本地垂迹説後となるのでしょうかねー。❓❓

 次のコラムは、柳田國男翁の故郷・福崎町「かたりべ」よりの引用です。

 大切なところは、「神積寺之図」右下文殊堂の傍らに「六所社」とあることで「旧文殊堂絵馬・文殊祭礼図」にも「六所社」が描かれていることですよねー。現在天満宮脇舎「六所宮」は、天神山南麓を経て、4度目の遷宮となるのですよねー。神積寺(991年創建)鎮守社がどこかから移されたのでしょうが、「北野元宮」=「六所社」祭神「六縣座主命神」すなわち「阿遅須伎高日子尼命神」。次回は、「北野元宮」「宮室樓觀城柵嚴設」に入りましょうかねー。

 「かたりべ」妙徳山神積寺と埴岡氏伝聞誌 より          高 井 曳 里

    妙徳山神積寺は、播磨の国神東郡田原荘、北獅子山の山麓に開かれた古刹で、建立年時、正暦二辛卯年(九九一)三月八日、建立者は慶芳上人、上人の父は、大納言藤原範郷、母は六十六代天皇一條院の乳母。上人は幼にして比叡山に登り、第十八代慈恵大師に支持を仰ぎ、髄法を得、陰徳の志深くして台岳を退き、一條院の勅により当山を開き、自から彫刻せる薬師如来像を本尊と祀り、併せて岩尾神社に文殊菩薩像を安置、妙徳山神積寺の守護とし、毎年一月二十五日、勅使を迎へ文殊会式を執行する。
    妙徳山神積寺と号く一宇を本願成就成し得た後慶芳上人は、北野村妙の池の傍に、自から即身成佛を体証する.後に上人の弟子、覚聖阿閣梨(三条院の第七皇子)の時代には、七堂伽濫と五十二院の隆盛を見る。この時三条院より、四国の土佐、讃岐の貢穀を賜り、一條、三條両帝の勅願所とする。
    この頃、当山を日本三大文殊の一に称へ世に広める。慶芳上人の後を受け、当山を確固不動の名刺に成し遂げた、覚聖阿闍梨も後に東獅子山、獅子吼院に即身成佛入寂する。
    これより後、近衛天皇(一一四二~一一五五)の宣示により、当山を播磨天台六山の一に数えられる。この頃、神積寺僧呂に玄真の僧名が見える。
覚聖阿闍梨の後継者か?
    鎌倉中期(一二二二~一二三一)後堀川天皇の中宮、安喜門院が永らく当山に住まわされた因縁により、門院百ケ日供養にあたり、阿弥陀種子板碑が建立される。
    当山は延慶二年(一三〇九) に火災にあい、堂寺、悉く焼きつくす。後再建するも、応仁の乱では赤松一族に従し当山の僧兵、京に向う時、その留守を狙われ、放火全焼する.この時、本尊薬師如来像を境内の井中に沈め難を免れる。
    現在の神積寺本堂は、天正十五年(一五八八)有馬法師の寄進により再建されたものである。また明治三年まで御朱印地にして毎年文殊会式には勅使の下向があった。
    明治三十四年八月四日、本尊薬師如来座像は、国の重要文化財に指定される。

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神積寺御開帳の事
    妙徳山神積寺の御開帳は、当山開基後、六十一年目毎、辛卯年に執行される。
    開帳とは、厨子の扉を開けて、その中に安置してある神仏を人々に拝ませること。したがって神積寺本尊である薬師如来座像を、一般拝観できるのは、六十一年目毎に行われる、開帳時に限られる。
    寺社の開帳は、すべて六十一年日毎とは限られず、三十三年毎、さらに七年毎、三年毎や、毎年恒例の縁日に修するものもある。前者に比べ後者は、寺社の修造費や経費を絞り出すために行なうものが多い。神積寺の御開帳に当っては、その前日から天台宗本山より、座主及び随行者の下山があり、寺院または寺院総代の家で宿泊し、当日に備える。
    開帳当日は、神積寺総代の家で身支度を整え、座主は天上興に乗り座主運行が始まる。天上興のかつぎ手は神積寺支院の檀徒中から数名の男子が選ばれる。 
    座主運行は座主を乗せた大上興の前後に近郷から招かれた、多数の僧呂が入り、次に檀徒や稚児、一般の人たちで行列を作り、神積寺本堂へ向い、開帳の儀式が執り行われる。前回は本山より中山座主を迎へて第十六回の神積寺御開帳が執行された。

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神積寺開帳年時
開山、 正歴二辛卯年(九九一)
第一回、永承六辛卯年(一〇五一)
第二回、天永二辛卯年(一一一一)
第三回、承安元辛卯年(一一七一)
第四回、寛喜三辛卯年(一二三一)
第五回、正応四辛卯午(一二九一)
第六回、貞和六辛卯年(一三五一)
第七回、応永十八辛卯年(一四一一)
第八回、文明三辛卯年(一四七一)
第九回、亨禄四辛卯年(一五三一)
第十回、天正十九辛卯年(一五九一)
第十一回、慶安四辛卯年(一六五一)
第十二回、正徳元年辛卵年(一七一一)
第十三回、明和八辛卯年(一七七一)
第十四回、天保二辛卯年(一八三一)
第十五回、明治二十四辛卯年(一八九一)
第十六回、昭和二十六辛卯年(一九五一)
第十七回、平成二十六辛卯年(二〇一六)千年祭

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埴岡家伝聞誌の事
    妙徳山神積寺開基者、慶芳上人の随行者に、埴岡土佐守と号く人物がいる。次に掲げる文書は、埴岡土佐守に関はるもので、八千種郷西大貫村、埴岡隆見と云う人が、明治二十年に記したものである。

埴岡隆嗣(文書)
    この文を著した埴岡隆見は西大貫村に住し、代々医業を継承する家系に文化四年(一八〇七) 八月八日に生れ、埴岡家八代目医師を務める。
    西大貫村、埴岡氏本家は、今の河嶋家と聞く、埴岡氏本家は、徳川藩政の始めより享保五年(一七二〇)七代目、埴岡新七郎まで八千種郷、大庄屋を勤むるも、故あって同五年十一月より、飾東郡西中嶋大庄屋、河嶋吉太夫に頼る事となる。
    また妙徳山神積寺の本堂、厨子、文殊堂等の鍵は北野村埴岡宗家、西大貫村埴岡本家(閉門後は河嶋氏に委ねる)永良郷甘地村埴岡本家、即ち埴岡三家が、それぞれに預り、文殊会式、追儀式や開帳等の儀式、行事の時、埴岡三家立ち合いの基に執行され、明治初期まで、このしきたりが継承されたと聞く。話を隆見にもどそう。
    隆見の家は、大庄屋埴岡新七郎の分家にあたり、江戸時代中期、家号を起盛館と号したが、嘉永五年(一八五二)故あって延寿館と替える。隆見は明治二十二年七月七日に没し、戒名、延寿院笠山松琴居士位を授している。
    西洋医学を長崎で修した隆見は家業を継ぐ。同業者の柳田国男の父、松岡操、天保三年(一八三二)生れや北野村医師、皐哲斎、文政五年(一八二二)生れと交友関係にあり、特に松岡繰とは師弟であり、胴友でもあった。その事は埴岡家の傍に松岡操が隆見の没後、建立した墓碑にも克明に記されている。
    また大門村の妙徳山、参道登山口に建立されている石標に記された神農講十五姓の中にも埴岡隆見、松岡氏、皐氏の文字を見ることが出来る。

    隆見の文中に見る、埴岡土佐守の遠裔に当る北野村埴岡利助と云う人を聞き問う時、利助の子孫に当る家から埴岡氏先祖一千年会覚帳、明治三十四年一月十日が見つかる。と同時に勅使接待に使われたと云う、湯呑み茶碗を見る。一千年会には時期尚早も近郷に住する埴岡二十五氏が一同に会している。当然甘地村の埴岡氏も同席している。これらを綜合して云えることは 前稿にも記した通り、埴岡利助家が埴岡氏の宗家と考察するは推考か・・。
 埴岡土佐守夫婦の碑、五輪二基の塔は最初北野村埴岡利助家の傍脇にあった阿弥陀堂の傍に建立されていたものを現在は妙徳山墓地に移設されている。 
    また埴岡利助の位糖は神積寺蔵所と聞く。
    今、日本全国に散在し埴岡の姓氏を称える一族の始祖、それは埴岡土佐守、その人か?。

一千年会に出席した埴岡諸氏、
    埴岡 甚吉 北野村
    埴岡角太郎 同
    埴岡 清蔵 同
    埴岡 友吉 同
    埴岡弥吉郎 同
    埴岡 武吉 同
    埴岡 菊蔵 同
    埴岡藤三郎 同
    埴岡市之助 同
    埴岡安次郎 同
    埴岡喜代蔵 同 
    埴岡 佐蔵 同
    埴岡 滝蔵 同
    埴岡重太夫 加冶谷村

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