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62「卑弥呼」の旗印は「日の丸」??

「日の丸」は、卑弥呼の旗印!!

日本の国旗は「日の丸」ですよねー。
みなさん、なぜ「日の丸」になったのかー。 知っていますかー。
「日の丸」はねー。実は「卑弥呼」の旗印から始まっているのですよねー。
「日の丸」はねー。「阿遅須伎高日子尼命神」、すなわち「たかきひのこ」の神の旗印だから「おひさま」が使われているんだよー。
日本が「神の国」と言われるのもそこから来ているのでしょうかねー。
私はもう10年程前「北野と妙徳寺の歴史」(新考)の出版した頃から、このことにはうすうす気づいていましたよねー。
それはこの地の「神積寺の鬼追い式」で舞われている「山の神」という鬼が、播磨風土記「所似云邑日野・・・・」、すなわち「阿遅須伎高日子尼命神」ということを知ったからそう言えたのですよねー。
卑弥呼「少有見者」(誰にも会わなかった。) 山の神「阿遅須伎高日子尼命神」「醜女・老婆」の面、「二の舞」の面(誰にも会わなかった。)徒然草 第62段 唐橋中将の子に・・・。
すなわち「卑弥呼」は、「阿遅須伎高日子尼命神」から、日の丸= 卑弥呼の旗印。日本の国・日本の元祖は「邑日野」(ひのくに)となるのですよねー。

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日本の古代史

  昨今の我が国の日本文化は、資本主義(大量生産・大量消費)の波に流され、 人間としての「本来の生き方」、日本文化(祇園文化)の素晴らしさが忘れ去られようとしているのではないでしょうか。
  祇園文化とは「蘇民将来」(一宿一飯の施し)「亀教文化」こそが、「心豊かに生きる。」と言う「おもてなし文化」が忘れ去られないようにしなければならないのですよねー。
  その文化の根源は、「魏志倭人伝」にある「亀教文化」そのものであり、約1800年も以前の昔から渡来した、その文化の探求を行ないます。
我が国、日本の古代史「邪馬台国・卑弥呼」については、「九州説・畿内大和説」は、多くの人が知っている。それが現在の常識となっていますよねー。
でもその真実については分からない。というのが現状なのではないのでしょうかねー。
「播磨風土記」では、高岡里・奈具佐山其由不知、「所以云邑日野」の条に至っては、オワチノと読ませ「阿遅須伎高日子尼命神」オワチノに住んだで、全く解読不能としていますよねー。(日野邑の所以は、と読むべき)

私の古代史、私の住んでいる「北野」という集落。そして私が伝え聞いた「昔話・その土地の名称や呼び方」等々の「云われ」から、その歴史の探求を進めています。
最終的に「卑弥呼・阿遅須伎高日子尼命神」説に繋がったのは、徒然草「第62段、唐橋中将の子に」中の「二の舞」の面と、この地で舞われている「山の神」の面、すなわち卑弥呼「少有見者」(誰にも会わなかった)の記述で繋がったのですよねー。
次に「宗女・臺興」(とよ)なる人物がいるのか。
「阿遅須伎高日子尼命神」の義弟に「八重事代主命神」、その曾孫に「天豊津媛命」(とよ)、宗女(直系親族)と(読み方)が繋がって、「卑弥呼」は、日本の文献「日本書紀・播磨風土記」の中で記されている「阿遅須伎高日子尼命神」でしかなくなってくるのですよねー。
そこから入ると「邪馬台国」は、山に囲まれた国となるのですよねー。
そして大和は、大きな和(輪)大和盆地を言っているのでしょう。
そして「大きな輪」という以上、小さな和(丸)が「邪馬台国」、すなわち「邑日野」と繋がってくると述べているのですがいかがでしょうかねー。
この「邑日野」は、1332年の「大山豪雨」で流出してしまって、外部からの研究では、「絶対に辿り着けない。」、古代史となっているのですよねー。
いま私が書かなければ、日本の古代史は「未来永劫の迷宮」となりますかねー。
この時代、中国では列強の三国が争い、諸葛亮「諸葛孔明」の一族の誰かの我が国への亡命が、揚子江文化「祇園文化・稲作文化」の始まりとなるのでしょうかねー。
 後堀河天皇の中宮「安喜門院大弐」
「あわれにぞ つゆのすみかを たずねける きえにしあとに のこることのは」
この地には、「庵の裏」と言って、「薬師堂」の裏「井堰」をそう呼んでいる。
この「薬師堂」の記述も「播磨鑑」にしか出てこないのですよねー。
 またこの地には、昔でいう田原川に築かれた井堰(神前堰)、そしてその先には「神前山」ということは、その元に「社」があった。この社が「みやでん」と言われていて、明治6年の西田原小絵図に記されている。
これが「魏志倭人伝」に記されている「卑弥呼の城柵」となるのですかねー。

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