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25「邪馬台国」to「柳田國男翁」!! コキリコ」古謡

コキリコ」古謡      西 条 八 十 「平村を訪ふ」より
                                                                          昭和5年朝日新聞社刊                昭和5年7月、全国各地の民謡を採譜していた詩人の西条八十が「コキリコ」を探して五箇山・平村地方をおとづれた。Yay-全体ビュー2000突破!!Thank you very much!!

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 そのときの様子が昭和5年朝日新聞社より刊行された「民謡を訪ねて」に登場する。文中にも登場するが、氏はかねてより民俗学者柳田国男氏より聞いていた、五箇山地方に伝わる「コキリコ」なる古謡にいたく傾倒していたそうである。当時、ふもとの城端町までは車で3時間を要していた時代であり、近代化甚だしい時代ではあったが五箇山には独特の文化が多く残されていた。それでも日本各地に伝わる「民謡」というものが消えゆく流れに民謡の宝庫五箇山もその例外ではなく、コキリコも当時村の長老が知るのみとなっていた。

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 麦屋節、こきりこの歌詞が文中の随所に登場する。           本文より~ 庄川を差し挟んで高い藁家が密集している。そこが平村の中心地だ。私たちの車はやがて峠を下り尽くしてその部落にはいり込んだ。(中略)藤井氏は五十恰好の土地生え抜きの人。隻眼を光らせて無愛想の私の質問に答える。
 麦屋節を聴きたいと所望したが、昼間はうたう人も踊る人もみんな山へ働きに行っていて駄目だとのことだった。 わたしはやはり五箇山に残っている古謡で、城端では聴くことのできない「コキリコ節」をどうかしてここで聴くすべがないかと訊ねた。この謡の次のような歌詞が「北国巡杖記※(右覧参照)」に出ているのを、私はかつて柳田国男氏の話で知って以来いたく愛誦している。もしそれが聴かれるのだったら今宵一夜をこの山中で過ごしてもいいとさへ思っていた。
  ~むかひの山に啼くうぐいすの
            ないてはさがりないてはあがり
                    朝草刈りの目をさます。
(中略)
  なお五箇山にはこのほかに「長麦屋」「しょだいじん」(これはおそらく「古大神」とおなじものであろう)「四竹ぶし」等の歌謡があったが…
(中略) 私たちが藤井老人の珍らしい山語りに 飽かず耳傾けているうち、いつか山から帰ってきた村人たち ―その昔平家の落人であり、加賀藩の武士であって、いまもその名残りをとどめた朝の紋服姿で野山に労作する― は、私たちを取巻いて好奇の眼を輝かせ、四囲の峰々の頂きを染める赤い夕日の光は、すでにこの山村に夕暮近づいたことを知らせた。    「こきりこ」は、越中五箇山の古社、上梨白山宮の祭礼に歌い踊られてきたが、隔絶山村として長い歴史を経た五箇山も、大正末期から昭和初期にかけて、電源開発などにより、外界との交流が始まるにつれて忘れられていった。
 西条八十氏がこきりこ採譜のため五箇山探訪したのを契機に昭和26年、古くから歌い継いできた上梨の  山崎しい老 (昭和38年没)の演唱を採譜して発表し、一躍脚光を浴びることになった。
 奈良朝の万葉集などにみる純真、素朴にして、大らかな古代日本精神を伝承する唄として、その文化的価値が認められた。そして昭和28年、東京・日本青年館に於ける第4回選定無形文化財として全国郷土芸能大会に出場した。今日では、こきりこをはじめとする五箇山の民謡は、小中学校の音楽の教材として取り上げられるなど大変有名になり、心に残る独特の旋律に惹かれ、当地を訪れる人も増えた。
 あるいは一民謡にとどまらず様々なジャンルの音楽のモチーフとして使われ、日本を代表する唄として多くの人々に大切にされている。 近づいたことを知らせた。 
  山崎しい老  こきりこシデ踊りの踊り手               奇談北国巡杖記(きだんほっこくじゅんじょうき)1806年(文化3年)鳥翠台北茎によって書かれたものです。人形山の雨 人形山は同國となみのこをり。五箇山のうち田向村のうへにあり。雪この山につもりて。人の形相に身ゆるゆゑにかく号け侍るとぞ。いにしへより此ところは。四時ともに雪ふりて。例年梅雨に入日より。明る日まで雪ふらず雨ふるとなんゆゑに薪をもて此寒を防なれば。毎春家ごとに薪を撫なり。一家に一丈四方の積を。十余這山のごとく貯といへり。食物わさびをとりて食ふとあり。
都て北山の寒苦いはんかたなし。予も此の山にのほりて。雪の積れるを見からうじて下りける。

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神楽踊筑子唄譜
 越中五ヶ山に邑数七十二郷あり。
 ここにいにしえより神楽をどり こきりこ唄とて囃しものあり。
女は常にも白絹のかづら ひもを頭にかけ。うしろへ結たれ白絹の石帯をかけて。人にまみへ踊るときもかくのごとし。平家の類葉 落居して村民となり。
今に子孫あまたある事にて 官名を名乗るされば。毎仲秋のころ こきりこ踊りといへるを催すに。笛太鼓鍬金にてこれをはやす。
筑子の竹の うちやう 七五三五五三うちはやす女竹の長さ 五寸五歩丸竹二本なり。是を こきりこのふたつの竹といへり。いと鄙(ひな)めきて 古雅なれば左に志るし侍る。

筑 子 唄
思ひと恋と笹舟に乗せりゃ おもひは沈むて恋はうく          波のやしまを遁れ来て 薪樵るてふ深山辺に烏帽子 狩りぎぬ脱ぎ棄てて 今は越路の 杣がたな
むかひの山に 啼く鵯の 鳴いてはさがり 鳴いてはあがり          朝 草刈の 目をさます                         向ひの山をかづことすれば 荷縄がきれて かづかれぬ かづかれぬ
をどりたか踊れ 泣く子をおこせ ささらは窓の もとにある
向ひの山に光るものなんじゃ 星か蛍かこがねのむしか
今来る嫁のたいまつならば さしあげて燃せ やせをとこ
 
 ~西条八十について~
   さいじょう やそ 詩人1892~1970。
    東京牛込に生まれる。早稲田中学に学び吉江喬松の影響を受ける。
   早大在学中、詩誌「聖盃」に参加。早大英文科で教鞭をとる。
   アイルランド詩人やフランス象徴主義詩人に深く傾倒した。
   『砂金』などの詩集のほか童謡、流行歌も作った。    
   青い山脈 越後獅子の唄 他多数

こきりこの本場は、東砺波郡平村上梨である。
 こきりこ(筑子)とは、平安時代の田楽の替名であるが、宮永正運著の『越の下草』(1786)によれば、上梨白山宮に奉納される神事舞であり、唄は今様、踊りは白拍子に似ている。
 唄は、素朴であるが、上品な旋律で淡々と流れ、囃子ことば「マドのサンサはデデレコデン、ハレのサンサもデデレコデン」が印象的である。
 楽器は、鍬金、筑子竹、編竹、棒ざさら、編木子(板ざさら)、鼓、横笛、銅拍子で演奏される。
 こきりこは、中学校音楽科の共通教材として、教科書に掲載されてから全国的に知られるようになった。

柳田国男 「踊の今と昔」  『人類学雑誌』 明治44年4~8月
六 翔鼓踊 コキリコ踊                        踊子の持道具には愈々以て奇妙な言の多し。伊勢城田村の翔鼓踊のことは度々前にも云へり。其姿は白黒段染の筒袖を着し白木綿を腹に巻き脚半手甲を穿ち腰蓑を纏ひ、頭には白馬の尾にて製したる鬘(かつら)を被り胸には翔鼓を掛くとあり。神都名勝志の挿図はあてにもし難けれど右の鬘と云ふは笠なるが如く田楽の綾繭笠と似通ひたり。
 翔鼓又はカンコと云ふは今の大神楽の持てるが如き細長き中位の太鼓なり。自分は此を以て彼の洛陽田楽記中の腰鼓振鼓の類ならんと思へり。筑後の風流祭にても笛に鼓、翔鼓及び鉦を合すと云へり。其他大小の皮製楽器は踊には必ず伴なふものなり。                      越中五箇山は荘川中流の盆地にて自分も通過せしことあり、昔なつかしき地方なり。此地にコキリコ踊と云ふものありしことは三國志に引用せる北國巡杖記又は雑事記第十八巻などに見ゆ。越の下草には今は年たけたる者ならでは知らずとあれば大凡百五十年前迄は存ぜしなり。
 コキリコは女竹の長さ五寸五分のもの二本にて、之を両手に持ち七五三、五五三と打ちて踊の拍子を取るなり。黒甜瑣語には筑子(こきりこ)は今の四ツ竹の手拍子にて竹枝の遺響なりとかやとあれど此はニツ竹なり。    五箇山の踊は一に神楽踊とも称し季節は八月十五日の頃なり。囃し物には笛太鼓の外に鍬金と云ふものあり。鍬金の図は雑事記に見えたり。農具の鍬先に少し似て両端に穴ありて紐を通す。蝦夷の巫覡が祈祷の用に供する鍬先と云ふ物は、若し閑窓輪話などに見えたる図を正しとせぱ必ずしも之と相類せざれど、兎に角異様なる器具なり。猶後に鍬神の事を言はんと思へば参照せられたし。

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私は、実学の「柳田國男先生」を表現するため、あえて途中登壇とする。

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