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27「邪馬台国」to「柳田國男翁」!!  あッー忘れてたー。講演録❓❓

あっーそうそうー。忘れてたー。柳田國男先生の「講演録」だよねー❓❓       「卑弥呼」ファン集まれー!!(16) 「世 界 の 模 範 と な る 人 間 生 活 の 場」で紹介した、天台座主253代山田恵諦大僧正の「心豊かに生き生きと!!」「講演録」と言い、柳田國男先生の「講演録」と言い、すごいと思わないー。? 「文化」として書き残されているんだよー。ここが、この地のすごいところなんだよネー。 

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最後の帰省 田原小学校での講演   昭和27年10月8日
                  伊藤源二郎 聞書(明治38年卒》  柳田國男の話す辻川村について私は田原村出身七十八歳、子供の時分辻川の東の方の学校に一年か二年、熊野神社の円乗寺の中で勉強した生徒です。
私は十歳で東京へ出て何べんも帰ってきて見まするに村は全体から綺麗になり、山は木が大きくなった。
 私の頭ははげるが、山の木は綺麗になった。村と反対に市川は荒れて、川が全体に低くなっている。
 新町へ渡し場があった。駒ヶ岩があって、其の岩へ堰が出来て渕があり、川舟が通っていた。 ここで水泳の稽古をして上手になっていた。
 市川の水が出て田や林、家を流したりするので堤防が出来た。市川は実に美田でも流すからこれをふせいで安全にしなければならぬ。明治初年頃運搬するのに河舟で運んでいたが田へ引く井が邪魔になり道路が出来てから舟が通らなくなった。
 市川のような川は沢山ある。辻川の繁昌するのは交通の便がよい為、人が多く集まる。辻川の松岡の歴史を少し話し参考の為にしましょう。
 私の松岡の家は田畑を持たなかった為に約七十年前、辻川を出て東京の方へまいりました。その時辻川の戸数百二十戸其のうち約半分、松岡性でありました。古くは四百年前、江戸時代堺の方から来たもので、赤松の一族で兄弟でこの村へ来て五十何戸になった。
 株が二組あり東の方、西の方と二組あった。東の松岡家の方は追々繁昌するし、西の松岡は不幸になりました。大西の五代ヒー祖父の分家隠居せられ勘四郎と言う子を連れて分家せられた。辻川の中の方で屋敷の絵を見ても、いえの民家作り農家の形の小さな家、今大門の笹倉方、明治の初めの頃に売りました。
 民家づくり五間問口の小さな家をよい場所に建て、農家をしていた。田原村は大変古い村でよい土地、全国でも他の村々に比べて大変よい。それで田原村と言う村名になった。この田原村郷は千年ほど前から開けた。
 播磨の国でも四つ五つ位の村、田原郷の地名は古い。今は肥料を買う事が出来るが前は出来ない。下肥は田へ入れる事はしなかった。
 半分土地を耕して半分草を繁茂させ草を寝させてこれを肥料とした。私の子供の時分ヒタキ肥と言うものを入れた。これは古い形の緑肥、しかしこれを調べるには大変ひまがかかる。米は暖かい土地によく出きる。田をこしらえる土地はあっても田にする事は出来ぬ。三十町歩づつ草をはやしてこれを肥料とした。アメリカや日本では沖縄県下の群島にも半分草で半分田を作っている所もある。
田原村の言葉もこうした米のよく出きる田原の地形と言う所から村名が出来たもの。
 松岡の先祖が入り込んで百娃した時は分らぬが自分の村の近所の一番よい所を耕作していた。勘四郎さんの石碑は残っている其の子松之助と言う人の話は沢山残っている。変わり者で、石碑でも獅子の上に乗っている。二〇〇年も前、歌を読んだり漢字をやったりして持っていた田畑は売ってしまい角力は強いし長い刀を一本差して人が口論したり、もめ事があると仲裁したりしていた。農業者がこんな事ではとても家はうまくいかぬ。こう言う事情の為に財産を無くした。松之助は自由結婚した。それは新町の四代森太郎左エ門の娘松女。この家が日蓮宗、この家の跡となっているのが今の伊藤一族の先祖、子の儀助と言う子か京都の医者で下剤をかける手の上手な吉丸藤蔵と言う医者の弟子になり、じじの左仲と言うのも医者になった。
 コブのあった医者で往診は少しもせぬ医者、書物読も漢学者として偉かった。
 松之助の事、父が我がままをするし貧乏にはなったが中々孝行者であったけれども、日蓮宗を信じて寺へも詣らぬ為に妙徳山の寺からそしょうせられてついに所払い追放させられた。其の為に京都で暮らした。松岡左仲は男の子はなく女が二人、一人は医者漢学者の松岡小鶴でハタ織り縫い針は出来ぬ、世間に少ない人、その為に生活は苦しい其の時追放も許されて田原村へ帰って貧乏医者をした。養子に網干の中川至と言う人を迎えた。この人は大阪で学問していたもの、親の気に入っていたが、この人腸チブスを病んでうわ言の為に全快してから離縁した。賢次一人養育し社会の為にもつくした故、褒美をもらった女医者、傍ら青年に勉学を教え、子の操を医師にしようと明石の安田と言う医者の許へ稽古に行った。この人も漢学がよく出来て、学者達が集会している時の詩の一首に先生方が感心して姫路藩学校、下田先生推薦により藩士河合家老の仁寿山別荘、町学校、熊川舎に教べんをとり明治六年迄いた。親は原因不明ながら神経すい弱にかかり伊藤一族は親族ですから世話になった。
 田はなし医者ははやらず大変困った。親が達者な時代、播州には国学が盛んであった、大国隆正など来て、国学者が大勢集まって来た。操は子供達を教育する力なく私約七〇年前辻川をでました。
 国学院大学院教授をしていた時、神徒氏神より出発した医者より宮、どうしても氏宮より考え出した。 
 私の生れた臍の緒を切った子供の時の事を、口癖のように皇典の講義をした。兄弟は喧嘩せず親を養う一人いれば、他は学問して家を建てるようにすすめた。
 私は山林技師になろうとしたが、数学が下手な為、馬乗りになろうとしたが、兄が承知しなかった。兎に角、自分は勉強して自立しようとした。田地の少ない人口の多い日本の一番の悩みは地面のない事、今迄通りやっていてはいけない。いらいら競争しては悪い、余った人間のやり場、前は洗濯屋、歯医者であった。
 今では技師などインド、パキスタンなどから求人があるからよく勉強して何か独立した仕事を目指して国内でツカミアイせぬよう、生産競争して勝れる人になって下さい。いたずらに産児制限したりせず新しい仕事を考えて勉強する事。日本が行かんとするは海の事、海は資源も豊富で無限、海学者になれば海は広いからいくらでも発展する事ができる。
 先輩の者はこれ等、子供達を指導して狭い領上の日本国内でツカミアイせぬよう仕事を見つけてやるようにすると共に皆様は技術と学問に熱中して下さい。田原中学校、田原小学校の先生方にお願いする。
平和に生きられない人間は駄目、これからは生存競争は激しいから、よく勉強して先祖にすまぬような人になってはなりません。国内一杯になる迄発展して下さる人になって下さい。

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柳田囲男とそのふるさと
(財)柳田国男松岡家顕彰会記念館    初代館長 永 井 早 苗
 柳国國男は明治8年に神東郡田原村辻川(今の神崎郡福崎町辻川)で、医者であり漢学者であった松岡操(号を約斉という) の六男として生まれ、昭和37年、88才でなくなった。
 墓は川崎市の春秋苑にある。柳田国男は一般に民俗学者として知られている。民俗学を学問としてつくり上げた人で、民俗学の父ともよばれている。
民俗学というのは、現在の日本人の社会や生活の中に残っている「文字で書かれたものでなく」現実にとらえる事の出来る色々な現象、例えば、今の日本人の風俗、習慣、伝承、信仰、ことば等の中から、古い日本人の姿や心を探り出し、日本人とはどういう民族であったか、それがどんな過程と変遷によって今回の形になったかを知り、更にこれによって、将来の日本と日本人のあり方を考えていこうという学問であって、柳田国男は、日本民族の幸を求め、若い時は農政によって国民(日本は農業国である) の幸を考え、敗戦後は日本に民主主義が取り入れられ国政も選挙になった為に、国語教育とその指導に全精力を出しつくしこの学問のために八十八歳の生涯を捧げた。
 國男が故郷辻川で暮らしたのは、12才までであった。
西田原の昌文小学校(後に田原小学校となる)を卒業、北条で高等小学校を卒えたあと、辻川の三木家に一年余り預けられ、13 才で上京。その後は殆んど東京で過ごしたのであるが、彼にとって、この辻川での生活体験は、大変重要な意味をもつものであった。
 「三つ子の魂 百まで」という諺があるが、どんな人間にとっても、その幼少年期の体験や記憶が、その人の生涯を通じて、心理的に影響力をもつ事は当然であるが、柳田国男の場合、それは通常の意味をこえて、大変強く、且つ永続的なものであって、彼の生涯とその仕事に大きな影響を与えた。
 柳田国男の数百にのぼる著述には、彼の幼少年期の体験がのべられているものが非常に多く、しかもそれらは直接間接に彼の学問の思索のみち火となっていた。彼は常にそれらをもとにして、その後の研究を組み立て、発展させてきた。これは彼の学問の大きな特色の一つであって、彼の故郷での思い出は、彼の学問にとっては取りさる事のできない重要な要素となっている。
国男は大学を卒えた後、講演にあるいは調査に数十年にわたって全国を旅したが、自分の幼少年期の体験の中にあったものを、旅の中で出会ったそれぞれの土地のものと比較し考えあわせ、あるいは自分自身のものの意義を再発見し、それ等を理論づけ、系統だてて、新しい自分の学問のもととした。そして以前には誰もがまとめ得なかった未知の庶民の心の世界の探索郎ち民俗学の研究と樹立に生涯をかけた。
 さて、彼はその幼い時の体験を、その後の彼の学問の中で、どのように発展させたのであろうか。
 彼はその生家について「私の家は日本一小さい家だ」といい、しかも「この家の小ささという運命から、私の民俗学への志も源を発したといってよいのである」と言っているし、また「私は後年、日本家屋の構造を比較研究する場合に、何時もこじんまりした辻川の家を、出発点とするようになった」といっている。
 彼が大学で農政学を学び、農政学者となり、また農商務省へ入って全国の農民に接触していったのも、彼の幼時での飢饉の体験によるものであると、彼出身のべている。
 彼が5才の時、近くの家の婚礼で、男蝶役をした思い出が、後年日本の婚姻史をかく誘因になっており、氏神の村祭りの印象から、日本人の祭祀の原形と変遷を考え、それが「日本の祭」等の著作となり、遂には″神″ の研究にまで発展し、辻川の稲荷祠へのなつかしさが、後に稲荷信仰から稲作儀礼の研究となり、駒ヶ岩の伝説の記憶が「山島民諄集」を産み、千束の地名が「地名の研究」から更に「墓制の研究」へとつながり、堰溝の端の地蔵堂が「地蔵殿の苗字」となって、地蔵信仰の解析となり、上坂の旧登記所裏の湿地に生えていた「すず玉」の記憶が、彼の晩年の大著「海上の道」のテーマの一つになって、日本民族と稲の渡来に関する大仮説の提唱動機となり、鈴の森の山ももの木やこま大の思い出が、後に「孤猿随筆」となって、古人の動物への関心についての考察になる等、数限りなく書き出す事ができる。
 彼の幼時体験は、この様に広い分野にわたって発展し展開され、俗学の名のもとに、近代文学、歴史学、考古学、社会学、心理学、教学、言語学、その他種々の学問に、強い影響を与えた。
 「うぶすなの森の山もも高麗犬は……」と國男がうたった鈴の森の明神様も、その老樹も、こま犬も、国男がよく仔犬の匂いをかぎに行ったという有井堂も、彼が最初の読書生活を送った三木家とその上蔵も、春になると「美しい藤の花が樹々にからまって咲く」小さな稲荷の社も、古い地蔵堂も、そして彼を生みそだてた生家も、彼の故郷に今もそのまま昔の姿を残している。
 彼の自叙伝ともいえる「故郷七十年」の著書の中で、国男は溢れるような懐かしさをもって、それらを語っている。
 国男は彼の故郷を愛した。彼は「諸国の旅を重ねた後に始めて心づいて見ると、我村は日本にも珍しい好い処であった。水に随ふ南北の風透しと日当り。左右の丘陵の遠さと高さ。稲田に宜しき緩やかな傾斜面。仮に瀬戸内海の豊かなる供給がなかったとしても「古人の愛し来たり住むべき土地柄であった」とその著作「妹の力」の中で述べている。
 全国から、柳田国男と国男を生んだ土地であり、国男の幼少年期を送ったこの土地を慕って、福崎を訪れる人は、年に数千をかぞえ、更に日を経るにつれ、その数を増している。
 この様な豊かで美しい地。この様な積学を生んだ土地。そして今なお残る数多くの民俗学への最初の道しるべ。
 この地に住む私達は、この土地と、そこに遺されたものは、かつてはそれぞれが、幼い柳田国男の心に蒔かれた花の種子であって、それらは年を経て成長し、開花して我国の文化の発展に大きく寄与したということを、深く心に留め、誇りをもって、それらを長く守って行きたいものである。
〈追記〉
 我国のある有名な思想家は、柳田国男を評して、次のように述べられている。「近代日本が生んだ知識人の中で、彼ほど多くの人々に親しまれた人はないだろうし、また彼の作品のように、多くの人々に深い共感をもって読まれてきたものも少い。彼は実に豊かな遺産を、私達に残してくれたものである。

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 柳田国男先生の講演           福崎高校での講演雑記
 昭和27年10月8日、郷土の生んだ偉大な民俗学者、柳田国男先生が本校の講堂で講演を行い、生徒たちは輝きの目をもって先生の話に聞き入った。しかし、当時の木造の講堂は単学級であった高女創立以来のもので、そこに1000人近tヽ生徒を詰めこんだものだから超満員、「座れ」の号令が出ると生徒は講堂を流れ、廓下にまではみ出して聞いた。
[ 柳田国男先生の講演を聞いて ]
 10月8日、昼食の時、12時30分から柳田国男先生の議演があると先生が話された。私はびっくりした。それが本当ならどんなに嬉しいだろうと。柳田先生は国語の教科書の中でお知り合いである。その上、田原出身だという事も前々から存じていた。
 時間前に全校生、講堂に入る。ようやく校長先生の話があった。柳田先生の身分紹介である。次に待望の柳田先生である。78才には見えない若々しさだ。講演の内容は「私は20年ぶりに故郷田原に帰って来た。そして、今から諸君に話す事は、今から東京へ帰って高等学校で話をする下稽古のようなものである。」ここまで言われると皆笑った。一遍に緊張が解けた。「次に諸君遥は、青年であるのに少年、少年と新聞でみる。諸君の頃は人の言った事には、あ一そうかとうなづかないで一応自分で分析してみる。それは大変いい事で、その考えがなくてはならない。それを思うと思わないとでは人生の境目である」と言われた。その他にもいい事を1時間聞いた。       先生は2時の汽車で、東京へ帰られるのである。皆の拍手に送られて降壇された。              ( 6回生  一橋富美子 「日記」)

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