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23「邪馬台国」to「柳田國男翁」!!        「後の世を 渡す橋ぞと- 悲しき-」!!

    「後の世を 渡す橋とぞ    思いしに    世渡る僧と なるぞ悲しき」            さあー。いよいよー。この地本来の「妙徳山神積寺」の話に 入りましょうかねー。妙徳寺のルーツは、「妙徳」とわー!!文殊菩薩の別称、とてつもなく古いんだけど、謂われわーと問われると、貞和4年(1347年)の「峯相記」しかないんだよねー。❓❓

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峯相記  05:妙徳寺
 次に、妙徳寺(妙徳山神積寺、兵庫県神崎郡福崎町東田原)は、大納言範郷の息子で内供奉の慶芳上人が最初に建立した寺です。一条天皇(987―1011年)と三条天皇(976~1017年)の勅願寺でした。
 内供奉の慶芳上人が、西国を巡礼していた正暦二年(991年)三月八日、当国田原の庄、有井村に一泊しました。この時、夢の中に身分の高い僧が現われ、枕元に立って次の様に言いました。『この東の山は佛法繁盛の地です。東に流水(青竜)、西に大道(白虎)、南に窪地(朱雀)、北に丘陵(玄武)が備わり四神相応の地となっている。汝が来るのを今まで待っていたのだ。早速、寺を建て薬師如来を安置せよ。我は妙徳菩薩の化身(応化妙徳菩薩)なり』と。
 霊夢に驚いた慶芳上人が改めてこの地を見ると、誠に素晴らしい土地だったので伽藍を建立しました。かの範郷(はんごう)の妻が両天皇の乳母だった縁から当寺を勅願寺に申請しました。多宝塔は讃岐から上がる租税で三条天皇が建立し、常行堂は土佐国の租税で一条天皇が建立いたしました。    また、三条天皇の第七宮覚照閣梨は内供奉の慶芳上人の弟子となって寺務を行いました。国中から寄付を募り、堂舎や仏閣を建立し、天台(比叡山)からは優秀な学僧を招き法華一乗の教義を議論し、密教を学ぶ喜びを味わいました。
 ところが、延慶(えんぎょう)二年(1309年)8月五日、不慮の出火で金堂、講堂、鐘楼、経蔵が焼失しました。この為、寺僧などは諸方に寄付を求め、二堂(金堂と講堂)は復元されました。                      ( 正和4年(1315年) 妙徳山悟真院絵馬 )

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峯相記原本

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まー、ここまでが従来から語られてきた、由緒となるのでしょうねー。       (貞和4年・1347年筆)

 福崎町史でも「範郷」誰か分からん。で終わっていますよねー。
 範郷は、「河公」「三河の守」と読まなければならないのです。     すなわち、藤原 伊尹(ふじわらのこれただ)。 ここで語られている範郷は、藤原 伊尹(ふじわらのこれただ)。伊尹(これただ)の妹、一条・三条天皇の乳母、これこそが「藤原繁子」。後、「藤三位(藤原繁子)」となるのですよねー。範郷(はんごう)の妻と書いてあるところは、と読む。          三条天皇の第七宮覚照閣梨とは、藤原道兼の子、福足君で天夭。(大鏡では、死亡と記されているが、大鏡は特に女房の恨み節が多く、藤原道兼等の記述は散々であり信用できない。その説を採れば妙徳寺の歴史が解明出来なくなる。)(天夭は、仏門に入った。比叡山入寺と読む。)                   第七宮覚照閣梨とは、藤原道兼の子、福足君で三条天皇の第七宮(猶子)、比叡山で就学、天台の4哲と言われる「覚超」となる。峯相記それを引き継いだ神積寺縁起は、覚照・覚聖との聞き間違えとなっているんでしょうねー。
藤三位(藤原繁子)第七宮覚超閣梨」については、次回のお楽しみにー!!

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( 正和4年(1315年) 妙徳山悟真院絵馬 )右下、「六所宮」と小さな字で記載されている。こんな小さなことから、「六御縣座主命神・山の神・阿遅須伎高日子尼命神・葦原醜女」が見えてくるのですよねー。       ( 焼失後の記録として書かれたののでしょうかねー。?)文殊祭礼絵馬等の「六所宮」の幟、神積寺の守護神へとの繋がりがなければ「卑弥呼」には辿りつけないのよネー。

慈慧大僧正伝                                                                                                   【その徒三千と雖も、堂に登る者七十子、室に入るもの四哲、曰く源信、曰く覚運、曰く尋禅、曰く覚超、或ひは顕に秀で或ひは密に秀づ】
               ( 『慈慧大僧正伝』より    )                   

「山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ 」                              空也上人(くうやしょうにん)(903~972)の作                                     「山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだ」
                                                         (『空也上人絵詞伝』)出典

慈恵大師七猿歌画像7

画像8一、独り処して交らざるを愈(まさる)とする
  つらつらと、うき世の中を思うには、まじらざるこそ、まさるなりけれ
一、世に処するに視聴且つ言なきを得ざるを歎(たん)ず
  見聞かでも、いわでもかなわざるものを、うき世の中にまじるならいは
三、世を厭(いと)わざるを悔(くや)ゆ
つれもなく、いとわざるこそ うかりけれ、定めなき世を夢と見ながら
四、視ざるを愈となす
  何事も、見ればこそ げにむつかしや、見ざるにまさることはあらじな
五、聴かざるを愈となす
  きけばこそ、望みもおこれ、はらもたて、聞かざるぞ げにまさるなりけれ
六、言わざるを愈となす
  こころには、なにわのことを思うとも、人のあしきは、いわざるぞよき
七、思わざるを愈となす
  見ず、聞かず、いわざる三つのさるよりも、思わざるこそ、まさるなりけれ

 日光東照宮「三猿歌」も、この「慈恵大師七猿歌」を題材に作られものとなるでしょうかねー。

     私は、日本文化の素晴らしさ・天台文学、この慈恵大師の「七猿歌」、31文字で全ての表現の要約、素晴らしい文化ですよねー。       「妙徳山縁起」表現の要約、素晴らしいですよねー。

  


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