4.物部氏の東遷
『日本書紀』には、東にある青い山に囲まれた美し国(大和のこと)にニギハヤヒが降臨したこと、神武がその地を都にするために東征したこと、そしてニギハヤヒと戦って勝利し大和で即位したこと、そのニギハヤヒは物部氏の祖であること、が記されます。これは神武天皇に始まるヤマト王権よりも先にニギハヤヒが大和を治めていたことを表している、とされます。
民俗学者の谷川健一氏は「ニギハヤヒの降臨=物部氏の東遷」とし、ニギハヤヒを奉斎する物部氏がその故地である北部九州を出て河内、大和に東遷したと説きます。そして、大和の先住民であったナガスネヒコがその物部氏の権力を背景に大和を支配したとし、氏はこのナガスネヒコによる大和支配を「物部王国」と呼びます。さらにその物部氏の故地は現在の福岡県直方市もしくは鞍手郡で、東遷の時期は『魏志倭人伝』に記される倭国大乱があったとされる2世紀後半とします。
『先代旧事本紀』にはその物部氏東遷(ニギハヤヒ降臨)に加わった氏族の名が記されます。谷川氏はこれらの氏族名、その前提としての地名の分析などから河内・大和・摂津と筑前・筑後にまたがって物部氏の同族が多いことを指摘し、東西に渡る一族の交流があり、1〜2世紀頃から東への移動が始まったとします。1〜2世紀あるいはそれ以前の時点で東西に渡る一族の交流があったとする氏の指摘は明確な根拠が示されませんが、極めて示唆に富む指摘であると思います。
同じく民俗学者であり歴史学者でもある鳥越憲三郎氏も、後世に「物部」を称する一族が遠賀川下流域の鞍手郡から河内・大和に東遷したとします。谷川氏同様に『先代旧事本紀』に記されるニギハヤヒ降臨に登場する氏族名から類推される地名に対して、主として『和名類聚抄』をもとに考証した結果、遠賀川流域あるいはその周辺に残る地名と河内・大和のそれらが一致するケースが多くみられるとして、鞍手郡を中心とした地域に居住していた物部氏の主力が河内・大和へ移動したことが確実であると説きます。
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