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18.物部氏と鎮魂祭

物部の鎮魂が猿女の鎮魂に合体させられてその位置付けが低下、あるいはその存在が実質的に消滅してしまったとすれば、その背景として考えられるのは奈良時代になって以降、物部氏が没落してしまったことがあげられるのではないでしょうか。

当時、物部氏を代表していたのは石上朝臣麻呂(物部麻呂)でした。壬申の乱で大友皇子側についた麻呂は最後まで皇子に従った忠誠心を買われて乱後に天武天皇に重用されるようになります。天武天皇13年(684年)、物部連氏は多くの臣姓の氏族とともに朝臣の姓を与えられます。そして氏の名を石上と改め、石上朝臣麻呂として活躍、最終的に左大臣にまで上り詰めました。しかし、その石上麻呂が没した717年以降、物部氏は没落することになり、政治の実権は藤原氏に移っていきます。

一方で、伊勢神宮の祭祀に携わっていた猿女氏は宮廷に進出して祭祀の職掌を担うようになったと考えられています。宮廷祭祀の任にあたるために大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移して稗田姓を称したといわれます。一族に『古事記』編纂に参加した稗田阿礼がいます。

『記紀』で「神宮」と称される神社は伊勢神宮と石上神宮の二社のみです。天武天皇のときに宮廷祭祀としての鎮魂祭を開始するにあたり、皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮において猿田彦神の後裔とされる宇治土公氏とともに祭祀を担っていた猿女氏の鎮魂術と、もう一方の石上神宮に由緒を持つ物部氏の鎮魂術が取り入れられたのではないでしょうか。ただし、天照大神を祀る猿女の鎮魂が格上で、石上神宮の鎮魂は格下の位置付けがなされた可能性があります。
 
奈良時代以前の祭式を記録したものが残っていないので想像の域を出ませんが、当初は格下ながらも猿女の鎮魂術とともに物部鎮魂術が執り行われたものの、間もなく物部氏の没落とともに物部鎮魂術は簡略化され、さらには格上の猿女の鎮魂術への吸収、合体がなされ、『延喜式』の時点においては「一から十まで数える所作」だけが残りました。その後、『江家次第』に木綿を結ぶ所作が十種瑞宝を振ることにつながる旨が記されたり、『西宮記』の時点で御衣の入った箱を「振る」という所作が加わったりするものの、これらの所作が本当に物部の鎮魂術にある神宝を振る所作に由来するものかどうかは定かではなく、逆にこじつけの感すらあります。したがって平安時代中頃においては、物部鎮魂術の所作はほぼその形は失われていたものと考えられます。
 
石上神宮の鎮魂祭にまつわる文献資料を研究している田村明子氏によれば、石上鎮魂祭には古代からの連続した伝承があるとはいえず、現在の鎮魂祭は、衰微していく神宮の再建のために18世紀初頭に宮廷鎮魂祭の中で物部由来とされている所作の部分を参考として編まれた式次第を研究し、昭和8年(1933年)に新しく作られた祭祀だということです。氏によれば、平安時代末期には鎮魂祭との関連で白河天皇の厚い崇敬があったものの、鎌倉・室町時代には宮廷の祭祀から遠ざかって次第に衰退したそうです。
 
現在の石上神宮の鎮魂祭は昭和8年の次第から少し変化するとともに参列者の見守る中で「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、振れ、ゆらゆらと振れ」と呪言を唱えて鈴のついた榊(著鈴榊)を振る招魂の儀が行われたあと、禰宜が十代物袋(十種瑞宝を紙で象ったもの)を取り付けた著鈴榊で参列者一同を祓います。

石見国一之宮であった島根県の物部神社でも鎮魂祭(物部神社では「みたましずめのまつり」と読まれています)が行われています。神殿の上段では神官が二体の人形(ひとがた)の入った箱を振る所作を、下段では猿女に扮した巫女が自らが乗っている宇気槽をドンと撞いて多草をサラサラと振る所作を、一、二、三、四と数えながら10回繰り返します。さらに数えるたびに玉の緒を結びます。これは宮廷の鎮魂祭と極めて近い内容で、違いは箱に入っているものが御衣であることくらいです。物部神社の鎮魂祭も参列することが可能です。

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いまひとつ実態がよくわからない物部氏。素人発想で出したトンデモな答えに対して、その検証プロセスは意外なほどに真面目、丹念、緻密なものとなり…

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