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【恋愛小説】「大気の状態が不安定」


鎌倉

初夏の鶴岡八幡宮の太鼓橋の前には、行楽客がごった返していた。目に刺さる若葉と、色彩豊かな人々の服装が、時速三十キロの速度で目の前をかすめ去って行く。
赤、青、黄色、緑、白、白、白、白、白。
人混みをすり抜けるとき、人々が海の白波に見えることがある。慶之(よしゆき)の背中に摑まりながら枝理は、遠い昔、叔父のバイクの後ろに乗って、さとうきび畑の間を抜けたあの道を思い出す。
晴れた初夏の朝。
足下に掠れ触れるさとうきびの葉。
エンジン音以外に、何も聞こえなくなる快感。

バイクは八幡宮の突き当たりで大きく左にカーブし走り抜ける。信号待ちの人々が、羨ましげにそれを見送る。
小町通りを一本奥に入り、昼御飯に彼お気に入りの笹寿司を買う。
枝理が、寿司屋の向かいの店先のワンピースに目を留めた。興味を惹かれた枝理が踊るように歩を進め、店に入り、一着を選ぶまで、慶之はいつも待ちぼうけをさせられる。バイクにもたれ待つ彼を気遣って、枝理は時々店先から彼を振り返る。やがて一着のワンピースを購入した彼女が店の奥から出てきた。二人はふたたびバイクを駆り出し、由比ヶ浜へと向かった。今日は晴れていて暑い。
由比ヶ浜にはあっという間に着いた。バイクは渋滞知らずで、速い。昼下がりの海岸沿いには人気はまばらで、枝理たちの視線の先で若い父親が、浜辺で小さな娘を遊ばせている。枝理は何という気もなしにぼんやりとその父親を見つめた。白のポロシャツにカーキ色の半ズボンというシンプルな服装。両手をポケットの中に入れたままきらきらと陽射しが揺れる濡れた砂浜に立ち、娘を見守っている。日頃仕事などで忙しく娘と二人きりという状況に慣れていないのか、ぴかぴかと光る青色のプラスチックの熊手で砂を掻く黒髪の少女との距離が微妙に開いている。時折かかってくる携帯への電話は仕事用なのか、さっきから何度もポケットから手を出しては海辺には似合わない口調でてきぱきと喋る彼に、
―娘と遊ぶとき位、電源切ればいいのにね。
振り返ると、どうやら同じようなことを考えているらしい慶之の表情にぶつかった。すると二人は自然に歩み寄り、ごく短いキスをした。

キスをきっかけに何かを喋り出すことはなく、その後も彼女は無言で遠くを見ていた。
慶之はバイクに寄りかかり、遠くを見ている枝理を見ていた。
枝理。
呼びかけようとしてやめた。さっきから、喉元まででかかっている一言が声にならない。慶之は仕方なく、彼女の茶色い、長い猫っ毛と彼女の横顔にしばらく見入った。

三度目の電話をようやく切った遠くの父親が、品のいい佇まいでこちらを見据えた。枝理はふいに、彼と目が合った気がした。彼の表情は逆光でよく見えない。彼の肩の向こうで、海が金色に光って揺れている。

「今日は二輪にして正解だったな。」
チェックインのできる午後三時半ちょうどという時間に宿に着くと、部屋に入るなりツインのベッドの片方にごろんと横になり、慶之が満足そうにそう言った。「去年、車で、スゲエ渋滞ハマったもんな」
そばに腰を下ろした枝理の背中に、慶之が腕を回した。甘えたがりの彼は、昼間でも彼女を平気で摑まえる。座っている枝理の視線からは窓越しに海が見える。まだ昼下がりの太陽が照らす時間。横長に光る波がまぶしい。波の音は、彼女を抱き締めた姿勢のままいつの間にかうとうととまどろみ始めた彼の耳元まで届く。此処は静かだ。彼の髪を、子守唄を歌う母のように枝理はそっと撫でた。そして、まだ完璧には寝付いていない筈の慶之の寝顔を見つめた。彼は待っている。けれど枝理は、さっきのキスの続きをしようとはしない。
慶之と鎌倉へ来るのは今回が二度目だ。旅行にはこれまでにも何度か一緒に行ったが、彼は決して海へ入ろうとしない。「水恐怖症なんだよ」付き合い始めて間もなくの頃、彼は笑ってそう言った。けれど彼は、こうしてときどき海にやって来たがる。彼は黙って目を閉じて、海の音を静かに聞いている。
やがて、寝息が一定になったのを見計らって、枝理は彼の小さな鼻にかかったサングラスをそっと外した。整った小さな顔。寝顔は意外に幼い。目覚めれば、瞳はきれいな色をしているのを枝理は知っている。

そのまま二人で少し昼寝をした後、枝理はさっき買ったばかりのワンピースに着替え、夕食のためのレストランへ向かった。慶之は、「似合う。」と枝理に向かって素直に言い、嬉しげに手を繋いだ。差し出す手が、愛おしかった。
ミュールが沈みそうなふかふかの絨毯が歩き慣れない。古めかしい洋館を改装したそのホテルは、この週末は満室らしかった。さっきフロントの男性がそう言っていたのだが、レストランに向かうあいだ館内を歩いても、不思議と他の宿泊客に行き会わなかった。
レストランに着き、きちんと白黒の衣装を着たウエイターの案内に、二人は背筋を伸ばし無言で歩いた。ウエイターに椅子を引いてもらう枝理に、しばしの緊張が走った。
 静かだった廊下に比べ、レストランにはすでに数組の客がおり、時折交じる食器の音や、低い声でのお喋り、そして音楽がほどよいボリュームで聴こえ、暖かな雰囲気を作っていた。案内されたテーブルの斜向かいに、年上の綺麗な女の人が座っていた。席に着くまでの間に慶之も枝理も彼女の存在に気付いていた。髪はショートで上品な黒のノースリーブのワンピースを着、銀色の大ぶりなフォークに子羊のカツレツを刺し勢い良く頬張っていた。その一切れ一切れを気取らずに食す彼女を、却って色っぽいと枝理は思った。支柱の影には男性らしき存在も居て、さらにテーブルの中央には、小さな女の子が行儀良くちょこん、と座っていた。絵に描いたような、幸せそうな家族連れだった。
「綺麗な人だね」
メニューで口元を隠しながら枝理が言った。慶之が無言で頷く。
食べ慣れない品名に戸惑い、何度もメニューに目を泳がせていると、
「パパー」
子供の通る声が一瞬レストランの静寂を破り、客の数人が彼ら親子を振り返った。父親と母親が同時に、なだめるように娘のほうへそっと手を伸ばした。周囲を気遣い辺りを見渡した父親と、枝理はまた目が合った。
 「さっき浜にいた親子だ」
枝理が思ったことを慶之が先に口にした。
 遠くに座る父親が一度枝理のほうを見たのがわかったが、枝理は遠くを向き視線をそらした。判っている。枝理は目を閉じる。彼が枝理を振り返るのは、枝理がつい彼を見つめてしまうからなのだ。
 二人は結局、彼女が食べていたカツレツに惹かれてそれを頼み、食前に出てきたワインで乾杯した。先にグラスを差し向けた慶之に向かって「何に?」と冗談めかして枝理が訊くと、「付き合って二年目の夏に」と慶之が笑った。枝理は、心のなかのざわつきが誰にもわからないようにワインを注意深く口に注いだ。姿勢を良くして、細心の注意を払い、いい女を気取っていた。

「枝理。」
メインを食べている最中、慶之が呼んだ。
枝理が見返すと、慶之の視線が、枝理のすぐ右脇にあった。

振り向くと、あの父親が、枝理の膝からいつの間にか落ちた真白い布ナプキンを拾い上げ、こちらに差し出してくれていた。
枝理は、なるべく平静な笑顔を作ってそれを受け取り、礼を言った。その瞬間、ワンピースの裾が乱れていなかったか、きちんと足を揃えて座っていたか、誰かの悪口を言っていなかったか、様々なことが一瞬のうちに気に掛かった。背中から無意識に汗が噴き出す。
父親は心なしか、少しゆっくりとしたスピードで、ナプキンを彼女に手渡した。真摯な目がこちらを見据える。枝理はもう一度微笑んで見せ、目線で礼を言った。
立ち上がった彼のすぐ後ろには、眠そうにむずがる娘を抱いた美しい母親が待っていた。
彼らはそのまま連れ立ってレストランを後にした。

―似ている。

慶之とふたたび二人きりになったテーブル席で、枝理の心を、さっきよりも大きなざわめきが走った。枝理は、しばらく無言になって肉を切っては口に運んだ。
少しして、慶之が無邪気に言う。
「枝理って、ああいうヒト好みなの」
「どうして?」
きょとんとし(た振りをし)て枝理が訊いた。
「なんか、かっこよかったろ、今の人。」
「・・・そうかな。」
枝理がそう言うと、慶之は少し黙った。それから顔を上げ、
「俺も。」見てろよ、といわんばかりの表情で慶之が言った。「あと二十年くらいしたら、あの位シブくなるからさ」
それを聞いた枝理は吹き出した。
「二十年もかかるの?」
「まあ、そのくらい先まで猶予くれってこと」
慶之は、枝理の笑顔に安心したようににやりと笑い、人参のソテーを口に運んだ。そして言った。「枝理。」
「お前さっきわざとナプキン落としただろ」
―実はあの男の人の気を引きたかったりして。そう言う慶之を枝理は見返した。そして彼のいつものいたずらっぽい表情に向かって、「まさか」と切り捨てた。
「怒るよ」
枝理は、両手のナイフとフォークを彼の方に仕向けた。枝理は思う。いつから自分は、こうして慶之に対して芝居をするようになったのだろう。それでもしばらく二人は笑い合い、話題は他の事へと自然に移り、次第にさっきの親子のことを忘れて行った。

部屋を真っ暗にすると、夜の闇が自分の体に覆いかぶさってくるような感覚に陥る。夜の闇の中、波の音を聞きながら眠るのは心地がいい。隣に眠る慶之の肌は枝理のそれよりも滑らかで、枝理はその部分だけ彼に嫉妬する。毛布の下で手を繋ぎながら枝理はふと、まださっきの父親のことが気に掛かる。すると突然、
 「さっきの男の人…」
 再び、独り言のように慶之がつぶやいた。枝理が首だけ振り向くと、枕元の髪が、耳元で微かな音をたてた。慶之が、繋いだ手を強めた。「枝理」
「別れるなんて言うなよ」
慶之が天井を見たまま言った。枝理は、「何言ってるの」と言いながら、心臓の鼓動が心なしか早まるのを聞き取られはしないかと焦りながら寝返りを打った。 慶之は、少し間を空けて、それから思い切ったように言った。
「お前、旅行から帰ってきて、なんかきれいになったからさ」
 慶之は、何かを気にしている。或いは何かに気付いている。
「日に灼けたせいじゃないの」
枝理は苦し紛れに、もう眠りたい、という素振りをした。慶之の手をほどき、彼に背中を向ける。彼はさらに言った。
「さっきのワンピース、すごい似合ってて、びっくりしたんだ。」
 枝理の背中をなぞりながら、慶之は話を止めない。
「枝理」
慶之が呼んだ。「こっち向けよ」
枝理は振り返らない。いつの間にか目に溜まった涙が、目尻の縁から零れ落ちそうだった。慶之は、無理やり枝理を自分のほうに向かせた。
「どうした」
 暗闇の中で慶之の影が訊いた。目が慣れて、窓の空が深いグレーに見える。
 彼の、世界一優しい手が枝理を包む。枝理はその手を困らせないように、そっと涙を止める。慶之はキスが上手だ。そのキスが優しくてまた、泣きそうになる。
―夜の間でさえ、季節は変わっていく。
 兄の聖(ひじり)が昔よく聴いていた、誰かの歌の歌詞が頭に浮かぶ。こんな静かな夜には、部屋のなかを、季節が気配だけで通り抜けているような気がする。慶之がいつもより熱心に、枝理を抱き締めた。慶之は腕に力をこめて願う。大切なものがもう二度とこの手から零れ落ちませんように。-もう二度と。
 「慶之。」
枝理が言った。「痛い」
 慶之は、はっとして腕の力を緩めた。ごめん、と小声で謝ると、さっきまで泣いていた枝理が、少し笑った。
二千年代最初の夏が、始まろうとしている。

 翌朝、二人は、洋館のような鎌倉の宿をあとにする。今日も暑い。慶之が駐輪場から枝理の待つ宿の前までバイクを押してきた。朝陽の下の彼には、昨夜の不安の表情はない。青空を見上げ「灼熱だなー」とつぶやきながら、ヘルメットを枝理に手渡す。慶之は短いTシャツを着、今日もサングラスをしている。ジゴロのようだな、と、枝理は心のなかでこっそり思う。目がなかなか覚めずにぼーっとしていると、彼は宿の玄関先にも関わらず、彼女の頭を引き寄せてキスをした。「目が覚めたか?」慶之は笑った。
 朝食に訪れたレストランでは、あの親子に会わなかった。枝理は内心ほっとしたような気持ちになった。今朝の二人は、いつもの恋人同士に戻っていた。バイクはエンジンを唸らせ勢い良く走り出す。彼は器用に車体を傾かせ、信号を右折する。慶之の背中、特に肩のあたりが枝理は好きだ。体重の傾け方にも、だいぶ慣れた。それから二人はまた、海へ向かう。彼は海が嫌いなはずなのに、海から離れられずにいる。
 一緒に眠っているとき、慶之はいちど悪い夢を見て飛び起きたことがある。汗をびっしょりかいて、おびえた瞳をして、つられて起きた枝理を折れそうな位強く抱き締めた。
 はじめ慶之は、その事について深く説明しようとはしなかった。枝理も敢えて詳しく訊き返すことはしなかったし、まだ泳ぎを知らない幼い頃の遠い記憶なのだろうと軽く考えていた。
慶之がたびたびする高校時代の話のなかに、「コータ」という友達が出てきた。「あの頃はコータと、仲良い奴があと二人いて、四人でどこへ行くにも一緒で、ホント楽しかった」慶之は何度もそう繰り返した。
 枝理は、慶之とは同じ大学で知り合い、しばらくは友達同士だった。つきあいはじめた後、その「仲良し四人組」は、実は「仲良し八人組」だったことを枝理は知った。
 男四人、女四人。夏は海へ行き、冬はスキーに行った。「青春だった」と慶之が言うその出来事のすべてに枝理は嫉妬した。付き合うまで慶之は、枝理に気を遣って仲間に女の子がいた、ということを言わずにいた。いつ言われようと、或いは慶之がその事に触れずにいようと、枝理にとっては同じ事だった。その思い出に、枝理は決して入り込むことはできない。その中で何があったのか、どんな恋愛を慶之がしたのか、どうして慶之はキスが上手なのか―。枝理ははじめ、敢えて知ろうとするまいと誓った。しかし或る時は反対に、凡てを知りたいという衝動に駆られた。そうやって枝理は時折、一人でその複雑な思いと葛藤しなければならなかった。最近はだいぶ慣れたが、慶之と高校時代の話になると、枝理は今でも少し、胸が痛い。しかし、海を訪れる慶之の心の痛みは、嫉妬という枝理の針の痛みよりずっと深いことを、今の枝理は理解している。

 慶之の親友の「コータ」、西脇好太は海難事故で亡くなった。例の男女八人で出かけた、卒業旅行で訪れた沖縄でその事故は起きた。彼らはきちんとした海水浴場になっている浜辺にいた。風もなく、空は南国らしく抜けるような青空だった。確かに海水浴をするには早い季節で、浜には日焼けを楽しむ観光客が数人、人出そのものはまばらだった。昼過ぎから浜に出て丸半日ほど遊び、日が傾きかけた頃、めいめいに泳いでいた仲間が浜辺に集まり出したが、慶之と好太だけが戻らなかった。慶之が好太を担いで現れたとき、好太はすでに変わり果てた姿になっていた。見つけた女子たちが、悲鳴を上げた。つい一時間ほど前まで、ビーチバレーでいちばんはしゃいでいた好太が、仲間うちでいちばんの運動神経の持ち主が、ぴくりとも動かなくなっていた。そこそこ泳ぎの得意な慶之はその午後、一セットだけ仲間のビーチバレーに参加したあと、一人で沖のほうまで泳ぎに出ていた。途中で好太に会い、手を振った。そのときは好太も同じように一人で、浜に向かってクロールで泳いでいた。思ったより潮の流れが速く、慶之がようやく足のつくところまで戻ったとき、仲間たちは遥か西のほうに見えた。砂の上に立つと、腕も膝もくたくただった。-海水浴場で流されるなんて情けないな。だるくなった腕で髪の水滴をはじき飛ばしながら、やっと泳ぎ着いたことを仲間にばれないうちにとそっと戻ろうとしたとき、慶之は何か黒い塊に躓(つまづ)いた。思い出してもぞっとする瞬間だった。引っかかった人差し指がことのほか痛んだので、大きな岩にぶつかったのだと慶之は思った。けれど見下ろすとそれは人で、見慣れた半ズボンは好太のものだった。その瞬間、慶之は、まるで全身の水滴が脂汗になって、その十八歳の皮膚を油のように滑り落ちるのを感じた。慶之は仲間に向かって叫んだ。―救急車っ!救急車あっ!
 春から看護学校に通う予定になっていた美緒という女の子が、やつきばやの心臓マッサージを指示し、慶之は彼女と交代で好太の心臓を押した。一人が遠方にいたライフセーバーを見つけて呼びに行き、また他の誰かが救急車を呼んだ。耳につく至近距離の救急車の音。女の子たちの悲鳴はやがてヒステリックな泣き声に変わった。救急車が着く頃にはぱらぱらと人が集まりだし、その様子を気の毒そうに見守っていた。水着姿のまま、さらし者になっている自分たちを自覚しながら、慶之は今起こっていることに身体では反応しながら、頭の中はまるで空っぽだった。コータ、どうしたんだよ?何があったんだ、コータ、コータ・・・。ゆっくりと傾く太陽の美しいオレンジ色が、そのときの慶之には甚だ苛立たしく感じられた。日没が近づくにつれ、硬く閉じた好太の唇はしだいに暗い影へと変わった。それから後はもう、慶之は好太の顔を見ることが出来なかった。

 海開き前の浜に走り出す枝理の後方で、いつも慶之はバイクにもたれてじっとしている。枝理は手招きで誘ってみたりするが、慶之はいつでも首を横に振る。
 「コータ」に会いに来ているのだ、と枝理は想像する。
 陽射しがまぶしくて、目を閉じても白波がまばたきのように光るのが分かる。
 二人は、海辺では何も話さない。
 枝理は思う。慶之はきっと、好太と会話をしている。

 「枝理。」
 振り向くと、慶之が枝理に向かって笑顔で缶コーヒーを投げた。
 慌てて両手を広げそれをうまく摑んだ枝理に慶之が言った。
「そろそろ行こうか」
 枝理は微笑んで、慶之のほうへ走り寄った。
 今日の浜辺は風が強い。無言でコーヒーを口に含んだ後、慶之が言った。
「これ(バイク)で来るのは、もう止したほうがいいな」
「どうして?」
枝理が首を傾げた。
「やっぱり後ろに乗る枝理のほうが危ないから」
慶之の気遣いに、枝理は「そうだね。」と大人しく頷いた。後部座席が危険なことは知っている。
―でも楽しいのに。
枝理は口には出さずにつぶやく。
慶之が、黙り込む枝理を見つめた。慶之も黙っていたが、好太のことを考えているわけではなかった。
近ごろ枝理は、慶之と一緒にいるとき、こんなふうに時折ぼんやりとすることがある。
慶之は、そんな枝理を気にしている。
 それから慶之はゆっくりとした動作でバイクにまたがり、湧き上がる不安な心を打ち消すように勢いよくエンジンをかけた。

終の住処

枝理には、丁度二十、年の離れた叔父がいる。枝理の母、夏子の弟で夏彦といい、彼から見ると枝理は姪にあたる。今年の夏で四十歳になるはずの彼は、親戚の中では風来坊、いい男だけれどいい縁がない、「不甲斐無いせがれ」で通っていて、枝理の記憶にある限り、いつも酒の席では好い肴にされていた。
―若い頃ちょっとモテたもんだから目が肥えちまって、あの歳になってまだ独り身でいるんだよ。
困ったもんさあ、と伯母たちが楽しげに会話するのを、枝理は幼い頃から何度となく耳にした。
 枝理は幼い頃、小さな南の島にある、その叔父のいる母の実家を訪ねるのを毎年楽しみにしていた。枝理たちが訪ねると決まって親戚たちも集まり、家はとても賑やかになった。夏彦は四人姉弟の末っ子で、待望の長男として生まれた。姉たちとは歳が離れていたため、枝理たちは若い夏彦によく懐(なつ)いた。幼い頃、枝理はひどい偏食で、牛蒡(ごぼう)のように細かったが、この島に来たときだけは肉でも野菜でも何でも食べた。両親が頻繁に島へとやってきたのにはそんな理由(わけ)もあった。殊に、「朝御飯食べたら夏彦叔父ちゃんがバイクでスタンドまで連れてってあげる」と言われると枝理は喜んで、茶碗の飯を急いで平らげた。枝理は、夏彦のバイクに乗せてもらうのが大好きだった。今改めて思い出すと、あれはほんの五十ccクラスの、小さなバイクだったのだと思うが、何を喋っても聴こえなくなるあのひどい騒音と、鼻を突くガソリンの匂いと、海のそばの両脇にさとうきびの植わった道路を走り抜けるガソリンスタンドまでのほんの数分の道のりが、枝理は何よりも好きだった。バイクから下ろされて家の中に入り、まだ家族じゅうが起きたての緩い空気に触れると、枝理は途端に、またあの切るような風に触れたくなるのだった。

 去年、丈夫だった祖母が急に亡くなり、夏彦はあの家に一人きりになった。その後間もなくして夏彦は家を売り払い、海辺に別の家を持った。
 夏彦からの便りが横浜の枝理の家に届いたのは、今年の春先のことだった。

 ある夜、家に帰ると、兄の聖と恋人の吏子(りこ)が来ていた。
 「こんばんは」
 顔見知りの吏子は枝理に向かってにっこりと挨拶をした。
 聖と吏子は、もうすぐ結婚する。吏子のお腹の中にはすでに二人の間にできた赤ちゃんがいる。吏子という女性は同姓として好感が持てる。出会った当初から直感的に枝理はそう思っていた。挨拶もそこそこに、ダイニングテーブルの椅子に座り込み、枝理が吏子と世間話を始めていると、聖が枝理の頭上から一枚の絵葉書をぱらりと落とした。
 ―妹には乱暴なんだから。
 床に落ちた葉書を、枝理が仕方なく拾い上げ、翻すと、目の醒めるような青い海が枝理の目に飛び込んできた。
 「終(つい)の住処を見つけました」
 それは、夏彦からの転居通知だった。瞬間、枝理は、数年ぶりに島へ行きたい衝動に駆られた。同時に聖が、「久しぶりに島でも行きたいなあ」とつぶやいた。ダイニングテーブルの前でネクタイを緩めながら、再び枝理から葉書を取り上げ何度も表裏を眺め返しては、夏彦の近況を母の夏子に尋ねていた。
 「まあだ結婚してないのか、夏彦叔父さんは」
 なぜか勝ち誇ったようにつぶやく聖の声が天井に響いた。
 それから思いついたように聖が、「お前も慶之君誘えば」と笑った。
 聖は、もう島に行くことを決めているようだった。

 枝理が旅行の話をもちかけると、慶之ははじめは二つ返事だった。「宿代タダだし、うまい飯も食べられるなんて最高」しかしそう言った後、彼の表情は明らかに曇った。「けど、沖縄なんだよな」
 親友の「コータ」が、亡くなった場所。彼らが訪れたのは沖縄の本土のほうだったが、慶之の中ではやはり何か引っかかるものがあるらしく、島へ行くのを躊躇(ためら)っていた。確実に、一緒に行くことはできないと、慶之から聞かされたのは、週末のデート中、枝理の家の車をガソリンスタンドの洗車機にかけているときだった。カウンターの椅子に座り、濃紺色のゴルフが洗われていく様子を二人で眺めながら、「篠崎教授のゼミ合宿」の予定を枝理は慶之から聞いていた。日程は聖が決めた旅行の日取りとほぼ重なっていた。慶之は残念そうでもあり、また、ほっとしているようでもあった。
「旅行ならまたいつでも行けるから」
車から目線を離さずに枝理は、慶之を気遣うように言った。枝理は、車に乗ったまま洗車機をくぐり、黄色や赤の、柔らかく細かい特殊な布地が何層にも重なったスポンジに車のボディやフロントガラスがペタペタと洗われていく様子を眺めるのが好きだった。慶之が四方を水に囲まれることを嫌うので、慶之と一緒にいるときは、車に乗ったまま洗車機にかけることができない。
 行けなくてごめんな、という慶之の優しい声に頷いていると、スタンドの店員が操る枝理の車が、水滴を弾きながらUターンし、枝理たちの目の前に横付けされた。

 「枝理、電話しろよ」
島に行く日、枝理は慶之に空港まで送ってもらい、出発ロビーで慶之はそう言った。
聖と吏子は、丁度ゴールデンウィークに入る明日、追ってやってくることになっていた。冗談めかして手を繋ぎながら「浮気すんなよ」と慶之が囁くと、枝理は笑った。
「また鎌倉に旅行しようね」
 枝理は言った。去年、慶之とはじめて旅行した思い出の場所だ。
慶之は、少し救われたように「ああ」と頷いた後、
―おまじない。
そう言って、どさくさにまぎれて枝理にキスをしようとした。
「ダメ。」
枝理は、恥ずかしさのため首元に顔を寄せる慶之をくすぐったがる振りをして避けた。南へ向かう枝理は、薄手のカーディガンを羽織っていたが、一人だけ夏が来たみたいな恰好で、慶之は内心はやり、旅立つ枝理を羨ましいと思った。搭乗口へと去りながら楽しげに手を振る枝理を見て、やはりキスをすればよかったと慶之は思った。

「さっきの彼氏?」
 飛行機が飛び立ってまもなく、隣に座った年上の女性がサングラス越しに枝理に尋ねた。咄嗟の事で枝理がえっ?聞き返すと、「ロビーで一緒にいた彼よ」と彼女は言い直した。赤ワインのスプライト割りという、世にも奇妙な飲み物を馴れた手つきで美味しそうに飲んでいた。ああ、と枝理は頷き、他の客に見られていたのかと思うと恥ずかしくなった。「そうです」
枝理が答えると、
「ずいぶん仲いいのね」
彼女は表情を変えずに言った。
 サングラスは大ぶりで、肩の上で跳ねる垢抜けた茶色の髪―まだらに金髪の入った、派手だけれど品のある色-と、尖った顎を横目で見、枝理は、この人は若い頃からきっと綺麗だったのだろうなと推測した。年は三十代後半か四十歳位に見えるが、はっきりとは判らない。一緒に行かないの、と彼女が訊いた。
「向こうに親戚がいるので。」
枝理は答えた。このままずっと一時間余り話しながら行くのだとちょっと面倒だな、と思いながら、枝理はなるべく簡潔に答えるように努めた。
 幸い、彼女は「そう」と言ったきり、離陸直後に飲んだ酒が効いたのか、しだいにうとうとしはじめ結局そのまま到着まで眠っていた。枝理はヘッドホンで邦楽のチャンネルをひねりながら一人、窓の外を見た。―仲いいのね。さっき彼女は言った。枝理は慶之と付き合いだして、もうすぐ一年になる。はじめ枝理は、慶之とは半年ともたないだろうと思っていた。慶之は甘えたがりだが、四六時中くっついているわけではないし、「仲いい」と言われると悪い気はしなかったが、それはきっと、客観的にそう見えるだけなのだろうと枝理は冷静に思った。
 付き合い始めの頃、枝理は慶之に妬きもちをやいてばかりいた。何もかもが不安だった。慶之の前に付き合っていた男の子とは、百八十度タイプが違っていたせいかもしれない。枝理が生まれて初めて「付き合った」その男の子は、女の子に対してどちらかというと奥手で、極端に言えば喋る女の子は彼女だけ、みたいな真面目な男の子だった。男同士での付き合いは普通で、友達が多かった。慶之は違う。出会ったときから、枝理はこの子とは友達以上にはならないな、と思った。明るくていい子だったが、女の子と喋るのにとても慣れている感じがした。枝理の手に負えるタイプではないと思った。授業の空き時間、学食で一緒に昼食を食べている間、ミオだの、ミホだの、タエコだの、女の子からしょっちゅう電話がかかってきた。それは高校の時の例の仲間だと後で知ったのだが、顔が広く友達の多い慶之は、枝理の目には遊び人風に映った。今でも、その女友達と連絡を取っているのか、或いは連絡を絶っているのかどうか、枝理はあえて尋ねない。「怪しい(仲の)女の子なんて誰もいないよ」と慶之は言っていた。それを丸ごと信じきれるほど、当時の枝理は物分りが良くなかった。そして、最初の先入観やさまざまな憶測を抱えたまま慶之と付き合っている自分を、枝理はずっと隠していた。付き合っている間、何度か喧嘩はしたが、二人に間に大きな危機はなかった。そのモテそうな見た目から枝理が抱いていた先入観とは裏腹に、慶之は枝理に対して誠実だった。空港まで嫌な顔ひとつせずバイクを飛ばしてくれた慶之。休日の洗車のときさえ隣にいてくれる慶之。枝理はさっき別れたばかりの彼の顔をぼんやりと思い浮かべた。眼下に、目指す南国の島が見えた。


秘密

空港の小さなロビーに、枝理はたった一人、置いてきぼりを食ったようにぽつんと腰を下ろしていた。夏彦は携帯を持っていないので、夏彦の自宅に一本電話をかけて留守と知った後、枝理はやるべきことを失くしてここに座っていた。冷房避けに羽織ったカーディガンの下が微かにべとつき、飛行機を下りた瞬間から枝理は、この島の気温の高さを肌で感じていた。隣の席に座っていたキャリアウーマン風の彼女は、空港に迎えに来ていた若い女性に「根岸チーフ」と呼ばれ連れだってタクシーに乗って行った。旅行会社か、出版関係か、とにかくそういう花形職業的な匂いを、二人のせわしそうな動作のなかに枝理は感じ取った。夏彦へ電話をかけようか迷っている枝理に、「じゃあね」と旧くからの知り合いのように彼女が遠くから軽く手を振った。枝理は少し微笑んで会釈をした。自動扉が開いて、太陽の下に出ると、機内では違和感のあった彼女の大きなサングラスは島の雰囲気にとても似合っていた。
 彼女のタクシーが去るのを窓越しに見送って、枝理は、荷物の中の携帯を探しはじめた。大した荷物は入っていない。ワンピースとカットオフジーンズ、白い帽子、水着が二着、コンタクトレンズと愛用の歯ブラシ、歯磨き粉。枝理にとって大切なものは、それほど多くない。枝理の旅行の荷物はいつも、友人の誰よりも小さいのだった。

「枝理ちゃん。」
しばらくして、ふいに名前を呼ばれた。
 振り返ると、感じのよさそうな長身の男性が、枝理に向かってにこにこ笑って立っていた。半ズボンにヘンリーネックのTシャツ、胸板は意外と厚い。日に灼けた腕と伸びかけの髪。三年ぶりに見る叔父、夏彦だった。枝理は、返事の代わりに笑い出してしまった。夏彦は会う度、枝理が子供の頃から今まで、まるで外見が変わらないのだ。
「よく来たね」
 夏彦は言った。そういえば、こんな快活な声だった。
「お久しぶりです」
 少しかしこまって枝理は挨拶した。
 遅くなってごめん、と枝理の荷物を手に歩き出しながら夏彦は言った。外は暑かったが少し風があった。空は快晴だった。入り口のすぐ前に旧式のロングのパジェロがハザードを出して堂々と停まっていた。夏彦に促されて助手席に乗ると、エンジンがかけっ放しになっていた車内では鳥肌が立ちそうな位冷房が効いていた。
「家でのんびりしていたら遅くなって」
 夏彦が重ねて詫びた。運転するとき、夏彦はサングラスをかけた。フレームの薄い、レイバンの至極上等なやつだった。「度が入ってるから恰好悪いんだけど」と照れる夏彦はサングラスをかけると、少しだけ他人のようだった。
 空港そばの少し車通りの多い道を、枝理を乗せた車は走り出した。夏彦はミラーに視線を泳がせながら器用に車線変更をする。車の少ない道になると、夏彦はけっこう飛ばす。
「枝理ちゃんは、何年生になったんだ?」
 お母さん元気、お昼食べた、などの一連の会話をしたあと夏彦が訊いた。
「大学二年」
 枝理は答えた。
「もうそんなになるのか」夏彦は素直におどろいた。「俺も年取るはずだよな」
「叔父さんは変わらないね」
枝理が言うと夏彦は笑った。
「よく言われる。」「俺の住んでる家は竜宮城だって言われてる」
「竜宮城?」
枝理は吹き出した。そして訊いた。
「伯母さんたちは?よく来る?」
「ああ、毎年、誰かしらが来るよ」
前を向いたまま夏彦は答える。
「相変わらずなんだ」
「まあね」
 それからしばしの沈黙のあと、あらためて夏彦が訊いた。
「枝理ちゃんは島に来るの、何年ぶりだい」
「三年」
家で数えてきた枝理は即座に答えた。

枝理が最後に島に来たのは十七歳、高校二年のときで、祖父の葬式のために来た。その夏、枝理は「夏彦の彼女」という女の子に出会った。年は枝理より二つ上の十九歳だった。
「スミちゃんとはどうなったの」
枝理が訊いた。
澄世?夏彦が首を傾げた。それからああ、と夏彦は思い出したようにつぶやいた。
「名護に帰ったよ」
「島の子じゃなかったの」
枝理は少し驚いて尋ねた。
「アルバイトに来てたんだよ、海沿いのダイビングショップに」
日に灼けて、豊満で、大柄な女の子だった。体格とはアンバランスな可愛らしい顔をしていたが、気の強そうな性格をした雰囲気があった。訪ねてきた枝理の目に、その石嶺澄世という少女はまず意地悪そうに映った。同じ年頃の枝理を鋭い目で観察し、その癖ひとことも口を利こうとしなかった。或る夕立の日、夏彦に借りたタオルで服の上から身体を拭いていると、夏彦に向かって澄世は猛烈に怒り「あれは夏彦にアタシがあげたものなんだから誰にも使わせちゃ嫌」と別室にいる枝理にも聞こえる声で怒鳴った。びしょ濡れで困ってるんだから貸してやれよ、使い古しじゃかわいそうだろう、と、めずらしく夏彦が声を荒げているのが聞こえた。そのやりとりを聞きながら枝理は、あんな風に自由奔放な彼女と夏彦がよく付き合っているなと感心した。それでも、島にいるうちに年の近い枝理と澄世は、ぽつりぽつりと会話を交わすようになり、打ち解け始めた。島に帰る前の晩、二人は浜辺で話をした。
そのとき澄世が不思議な事を言った。
「夏彦ってね、彼女いるんだよ」
「彼女?」枝理は首を傾げた。「彼女って、スミちゃんのことじゃないの」
ううん、と澄世は首を振った。
「夏彦がずっと昔から付き合ってる人がいるの。東京で美容師やってる。夏彦と同い年の人。向こうは結婚してて、高校生の息子もいる。知り合ったとき、相手はすでに結婚していたんだって。それでもお互い好きになってしまって、付き合っているって。私が夏彦と付き合うとき、その人のことを言われた。『彼女がいるけどいいか』って。私はそのとき、『いい』って言った。好きだったから。私一人に向かせてみせるって自信がそのときはあったし、それだけ夏彦は、魅力的だった。」
―魅力的。叔父の夏彦のことを澄世はそう言った。澄世のことばは枝理にとって新鮮だった。枝理は驚いたと同時に、あの浦島太郎のような叔父もやはり一人の男なのだとはじめて認識した。
「スミちゃんはそれでいいの」
枝理は訊いた。頭のなかが混乱して、よく理解できなかった。理解できないのは、夏彦の行動というより、「それでもいい」と言い切れる澄世の気持ちだった。澄世はきっと大人なのだと枝理は思った。
「勝てないっていうのは、頭の中では解ってる」
澄世は言った。「でも、夏彦には死んでも言わない」
夏彦は、伯母たちにからかわれても何一つ言い返さない情けないだけの男ではないのだと、そのとき枝理ははじめて、叔父の違った一面を見たように思った。それにしても、結ばれない恋とはつらすぎる。当時高校生だった枝理は溜息をついた。澄世といい、夏彦といい。

夏彦が選んだ新しい家は、石造りの美しい佇まいで、ひっそりと海辺に立っていた。もともとは少人数の客を泊めるための宿だったらしく、案内されたどの部屋からも、海が一望でき、開け放した窓からの景色に枝理は歓声をあげた。庭には前の家と同様に家庭菜園が作られていて、野菜も果物も、手入れされほどよく熟れ、収穫されるのを待っていた。
夏彦は、部屋まで荷を運んでくれ、獲れたての果物でもてなしてくれた。
浜風が、体に心地良かった。髪を風に揺らしながら、枝理は島の果物を頬張った。目の前には海。額には風。口いっぱいに広がる甘い蜜。変わらない夏彦。枝理は、勝手に心臓が高鳴るのを感じた。
「偏食は治ったみたいだな」
夏彦がそばで笑った。
「うん」
口の中に西瓜を頬張ったまま枝理は答えた。差し出してもらった濡れタオルで口元を拭きながら、ここに来ると喋り方や仕草までが五歳の子に戻ってしまう自分を枝理は口惜しく思った。
けど或る意味偏食かな、と枝理はつぶやいた。何?と夏彦が首を傾げる。学校でも、家でも、枝理はどこへ行くにもチョコレートを鞄に持っている。胃下垂なので太らないが、虫歯はしょっちゅう治している。歯磨きを欠かせないのは、そのためだ。
「そう。」
夏彦は親のような安心顔になって頷いた。
「嫌いになれたら、どんなに楽かって思う」
枝理の大袈裟な物言いに、夏彦が、声をたてて初めて笑った。空に向かって飛ばした笑い声が縁側に響いた。目の前に、トマトの赤い実が見える。
「枝理ちゃんは、今日何が食べたい」
ふいに夏彦が訊いた。
「玉子焼きがいいな」
枝理は無邪気な顔で答える。
「あの、野菜とかと、炒めたやつ」
わかった、という夏彦の返事が、枝理の耳には「お安い御用」という風に響いた。
 夕刻、枝理は夏彦が夕飯の支度をするのを手伝った。島を訪れたときはいつも、卓いっぱいに食事が並んだが、その殆どを夏彦が作れるということを、枝理は初めて知った。中華鍋に油をひき、十分熱してから、一気に具材を入れる。手伝うといってもほとんど、夏彦の手さばきをそばで見ているだけの枝理の鼻をくすぐるようにその炒め物の良い匂いが、台所いっぱいに広がった。二人とも素足で台所に立ち、何度もつまみ食いをしながら皿を並べた。一品出来上がるたびに夏彦が差し出し、枝理が味を見た。夏彦が何か喋ると、枝理はふわふわと宙を浮いているみたいな不思議な気持ちになった。夏彦の声は、心地よい南国の男の声であり、懐かしい親類の声だった。
 今晩の食事の席は二人きりだったが、夏彦の昔話を聞くのは楽しかった。枝理は酒の飲める年になったことを夏彦に感心されながら、夜中までお喋りを続けた。ようやく喋り疲れて涼しい寝室に横たわると、枝理は慶之に電話を入れるのも忘れ、旅の疲れに吸い込まれるように眠ってしまった。

翌朝、枝理と夏彦は聖たちを迎えに空港へ向かった。
「叔父さんに会ったら、お兄ちゃんショック受けると思う」
途中の車の中で、枝理は一人、含み笑いをした。
「なんで?」
夏彦が不思議そうに尋ねる。
「叔父さんの背、越せてないから」

 ロビーで再会した聖と夏彦は、懐かしそうに握手を交わし(自分のときは握手はなかったな、と枝理は内心目の前の男同士を羨ましく思った)、やはり聖は、
「あれ、叔父さんのほうがまだ大っきいや」
と苦笑いをした。
 聖の後ろで控えめに笑顔を作っていた吏子と目が合った。枝理は彼女に笑顔で近寄り挨拶を交わした。
「良かった、枝理ちゃんが居てくれて」心からほっとしたように吏子が微笑んだ。「親戚の方に初めてお会いするものだから緊張しちゃって」
「大丈夫」枝理は笑った。「親戚って、あの家に住んでるの、叔父さん独りだもの」
危険人物には見えないでしょ、と枝理が茶化すと、吏子が笑った。
 四人乗ると、車内は多少狭く感じられた。
「参ったなあ、若者ばっかりで」
オジサンは俺一人かあ、と夏彦が頭を掻くと、
「いいじゃない。どうせウチらが生まれたときから『叔父さん』なんだから」
枝理がそう言うと、皆が笑った。
「今度こそ、夏彦叔父さんを抜いたと思ったんだけどなあ」
残念そうに聖が背丈の話を持ち出した。
「無理無理」
夏彦は笑う。
「食べてるモンが違うんだから」
「昔っから銛で突いて魚食べてたもんね」
右手を振り下ろすような仕草をしながら枝理が言うと、
「えええっ」
吏子が真顔で口を押さえた。
「嘘、嘘」
前の席の夏彦と枝理が言うと、吏子が照れたように笑った。
 兄たちが着いて早々、笑い声の絶えない輪のなかで、枝理はふと、胸の奥を摑まれるような違和感を感じた。昨日夏彦に会ったとき枝理は、自分が夏彦のバイクに乗せてもらっていた頃の、五歳の少女に戻ったような感覚にとらわれた。そして今は、兄とその恋人の前で、十代の頃の無邪気な妹を演じている。彼らの前で枝理は、いつまでも悩みがなくて、平たんだ。枝理は無性に、慶之に会いたくなった。窓の外を規則的に並ぶ椰子の木々が目の前を流れるように現れては消えて行った。植栽の隅々まで手入れされた小奇麗なリゾートホテルのエントランスを眺めながら枝理は、ひょっとして慶之がここまで追ってきてくれはしないかと密かに願った。
 聖たちは、島に最近新しく出来た近代的なリゾートホテルを予約していた。「夏彦叔父さんに迷惑かけるから」上原家に泊まるのは一泊だけにした、と聖は言った。枝理は、それを聞いて裏切られたような気持ちになった。聖と吏子も、ずっと夏彦の住まいに厄介になるものと枝理は思い込んでいた。枝理は、自宅のリビングで夏彦の絵葉書を見たときの聖を思い出した。聖は叔父を訪ねるという名目で、吏子との「新婚旅行」を企てていたのだと枝理は今になって気付いた。
 聖たちのチェックインを待つあいだ、車の中で枝理は少し無口になった。夏彦も、黙って車の空調をいじったりしていた。
「お兄ちゃんが結婚するの、叔父さん知ってる?」
ふいに枝理が訊いた。夏彦は頷いた。
「彼女、おめでたなんだってね」
 なんだ聞いてたの、と枝理は独り言のように言った。二人が泊まるという趣味のよいそのホテルの外観を見ると、枝理はますます憂鬱になった。昨日は島の海のように心が晴れていた。慶之のことも思い出さない位、はしゃいでいた自分が少し恥ずかしい気持ちになった。二人が来ることを、どうしてあんなにも楽しみにしていたのだろう。枝理は入り口に立つ制服のポーターの男の子をうらめしげに見つめた。堅い帽子のつばの下の瞳に枝理の視線がぶつかった。思いがけず目が合ってしまった枝理は、慌てて夏彦のほうに視線を戻した。夏彦は、呑気に「ん?」という顔をして枝理のほうを見返した。けれどそれは枝理に対して反応したのではなく、そのポーターの青年が、こちらに歩んできたからだった。
「お待ち合わせですか」
 夏彦がパワーウインドウを開けるとポーターの彼が訊いた。枝理は咄嗟にそっぽを向いた。夏彦が、ええ、と答えた。
「それでしたら、少し手前でお待ちいただけますか、ここは他のお客様の出入りが多いものですから」
ご案内します、と彼が小走りに車の前へ出た。ハンドルを切りながら、夏彦が、
「懐かしいな」
とつぶやいた。
枝理が夏彦を振り返ると、
「昔、俺もホテルでアルバイトしてたことがあるんだ。大学生の頃」
へーえ、と枝理は感心したように夏彦の横顔を見た。
恐れ入ります、と閉めた窓の外で、彼が深々とお辞儀した。顔を上げた瞬間、彼は、夏彦でなく明らかに枝理のほうを見た。
「一目ぼれかな」
目ざとく気付いた夏彦が茶化すように枝理に言った。
何言ってんの、と枝理は平静を保とうとしたが意に反して声が少しだけうわずってしまった。
「叔父さん、そういう話好きだね」
枝理が言うと、夏彦は答えずに、ただ笑った。そしてはぐらかすように、
「来たよ、聖君たち」
と玄関を指さした。

「夏彦叔父さんの家がこんなに広いなら、ホテル取らなきゃ良かったなあ」
夕食の席を四人で賑やかに囲みながら、聖がしみじみと言った。
「なんだかバリのホテルにいるみたい」
と言ったのは吏子だった。家に着くと吏子も楽しそうで、枝理は密かにほっとした。
「そうだよ」
大皿から野菜炒めを取り分けながら夏彦が言った。
「だから遠慮するなって電話で言ったのに」
「だって実はさ」
聖は白状するように言った。
「前の家はさ、大勢いつも泊まってたけど、はっきり言ってもうかなりガタが来てただろ。だから吏子が耐えられるかなって正直心配したんだよ。俺が最後に来た大学一年の時なんて雨漏りしてヒドかったぜ。家の中にいたのに枝理とびしょ濡れになったんだから」
「確かに」
夏彦が、そして枝理が笑った。澄世がひどい剣幕で夏彦に怒った、あの夕立の日のことを、聖は笑い話にしていたが、澄世のことは忘れているのか、彼女の話は出てこなかった。
 客人三人で台所での後片付けを手伝った後、順番に風呂を使い、吏子に続いて聖が出てきて、夏彦が冷蔵庫から冷えた缶ビールを手渡していると、電話が鳴った。夏彦が、胡坐をかいて新聞に見入っている枝理の背中に向かって、
「彼からだよ」
とにこやかに受話器を手渡した。
『枝理?』
そっち、携帯通じないのな、という明るく響く声。すでに懐かしい、慶之の声だった。

「枝理ちゃんの彼、カッコいいのよ」
吏子が夏彦にささやいていた。

 枝理は、懐かしい、愛しいその声の主に、島に着いてあわただしかった事、聖たちが今日やってきたこと、夏彦の料理と、果物が美味しいこと、海が部屋から見えることなどを一気に喋った。

「帰ってから話しゃいいのに」聖が呆れたように言うと、
「少しでも長く話していたいのよ」平和そうな声で、そばにいた吏子が答えた。

 夏彦は終始笑みを浮かべて、ふたたび台所に立った。
 そして少しの片付け物をして、浴室へ消えた。

 枝理が慶之からの電話をようやく切ると、聖たちは自分たちの割り当てられた部屋へ行ってしまってもう居なかった。枝理は居間の琉球畳の上で、夏彦が風呂から出るのを順番待ちしていた。
 石鹸のいい匂いをさせて、やがて夏彦が出てきた。遠くで、虫の鳴き声がする。
「風呂空いたよ」
 背中を丸めて新聞を見下ろしている恰好の枝理に夏彦が声をかけた。
 枝理が振り返る。右手に爪切りを持っていた。爪を切っていたらしい。
「それ、今日の新聞だぞ」
立ち上がって、傍の屑入れに新聞に載せた爪をささーっと落とし込む枝理に向かって夏彦が苦笑した。
「今日の、って言ったってもう今日終わりじゃない」
枝理は夏彦の忠告を気に止めるふうもなく、折りたたんだ新聞をもとの場所に戻した。
「叔父さんて、前髪下ろすと雰囲気違うね」
話題を変えるように枝理が促すと夏彦は、まんざらでもない様子で、
「昔はずっと短髪だったからな」
そうつぶやいて、濡れた髪を厚いタオルで拭いた。
「でも、そっちのほうがいいよ」
枝理が何気なく言うと、そうかい、と夏彦はとても嬉しそうに笑った。
 そのとき枝理は、澄世は、もしかしたら夏彦のこういうところに惹かれたのかも知れないと思った。夏彦はときどき、姪の枝理から見ても、正直すぎると思うことがある。人を信じすぎるというか、疑うことを知らないというか。そんなふうにむきだしでは、いつかすごい傷を負ってしまいそうな気さえする。枝理から見る夏彦は、ときどきそんなふうに危うい。

「叔父さん、彼女とかいないの」
気を取り直して枝理が訊いた。
「枝理ちゃんの彼氏は、かっこいいらしいじゃない」
かわりに夏彦が楽しげに話を振ってきた。はぐらかされたような気がしたが、うまく引き戻せなかった。
「・・・普通だよ」
枝理は仕方なく答えた。
「吏子さんが言ってたよ。モテそうな彼だって」
―だから困ってるんじゃない。
枝理は言いかけたが、
「別に普通だよ」
と繰り返した。
「連れてくればよかったのに」
夏彦は本当にそういう話が得意みたいで、いつのまにかそばに座って胡坐をかき、髪を乾かしながら話し続けた。
「いいよ」枝理は少し面倒になりながら答えた。このまま話が進んで、慶之に対する自分の不安をこの夏彦に打ち明けたところで、何になるだろう。
「忙しいの?」
「ゼミがね」
「そう」
そっけない枝理の態度に、悪びれることなく夏彦は言う。
「又今度、連れておいで」
「うん。」
枝理は曖昧に返事をした。その後に出かかった、別れなかったらね、の言葉は胸にしまっておいた。
「お風呂、入っていい」
枝理が訊いた。
「ああ入っておいで」
夏彦が微笑んだ。夏彦は昔から、笑うとあたたかい皺が口元に寄る。
素敵だな、と無意識に枝理は思うが、そのときはなぜか、そう思ったことで哀しくなった。

楽園


聖と吏子が、白い砂浜を連れ立って散歩しているのが遠くに見える。吏子のワンピースが、風に揺れている。聖は、朝日のあたる海辺を、吏子を気遣うように寄り添って歩く。新しい命を宿している吏子は下を向いて、自分の歩幅を確かめるようにゆっくりと、サンゴの浜を進んで行く。
 お腹いっぱいの夏彦手作りの朝食を摂った後、枝理はぼんやりと、間近で夏彦が庭に水を撒くのを見ていた。

「聖君が結婚するの、淋しい?」
ふいに夏彦が訊いた。
「そんなことないよ」
枝理は遠くを見たまま無表情に答えた。
「二人は昔から、仲良かったからなあ」
夏彦が思い出すようにつぶやいた。
「今も別に悪くないよ。吏子さんとも、仲良いし」
 この日の枝理はなぜか、不機嫌だった。

 夏彦は、枝理の機嫌に差し障りのないよう優しく頷いた後、長く伸ばしたホースを無言で手際良く巻き戻した。それから縁側に座る枝理の肩を借りるようにしてそっと触れながら部屋に上がり、そのまま自室へと入っていった。しばらくして、着替えを終えた夏彦が枝理を呼んだ。振り返った枝理の視線が、夏彦の引き締まったふくらはぎにぶつかった。夏彦は、鴨居に手をかけて遠くを見ていた。枝理は、この異国の人のような彼が年の離れた叔父なのを、少しだけ惜しいと思った。
 「出かけよう」
枝理は言われるままに部屋へ行き、急いで着替えてふたたび縁側に現れた。軒先で待っていた夏彦はTシャツに短パン姿で、帽子を被ると更に年齢不詳だった。
 島の反対側までピクニック。
 枝理は、にわかにわくわくした気持ちになった。
 もう熱くなりはじめた石レンガの上を、夏彦の猫が通り過ぎた。

 緑が深くなると、夏彦は枝理の手を引き、森を抜けた。晴れた島は蒸し暑く、夏彦たちは必死に草をかきわける。「本当にこの道で合ってる?」枝理は何度も夏彦の背中に向かって訊いた。夏彦のリュックには昼食が入っている。兄とその恋人を羨ましげに眺めていた枝理。夏彦の足元ほどの背丈の頃から仲の良かった兄妹。後ろを歩く枝理は歩きながら、もう甘い菓子を齧っている。振り返った夏彦に見つかって照れ臭そうに笑うが、弱音は吐かない。夏彦は、無造作に咲き乱れる紅花を途中で折って、彼女に差し出した。教えなくても、枝理は髪にそれを差し、そのまま歩いた。
 森を抜けると、紺碧に淀んだ水のある場所がある。岩に守られて波立つことを知らないその場所は、ダイバーの隠れたスポットでもある。夏彦はダイビングはやらないが、その美しさは知っている。
 目的地の岩場に着くと、枝理は歓声を上げ、Tシャツの下に着けていた水着になりすぐに水に飛び込んだ(泳ぎに連れて行く、とあらかじめ言っておいた)。胃下垂で貧弱な体、と自らは言うがその細い手足と長い髪。枝理は、いつか映像で観たジェーン・バーキンの娘にどことなく雰囲気が似ている。枝理は紺碧の水に潜り、水中眼鏡のままはい上がった。濡れた髪が、肩でしおれているがおかまいなしだ。夏彦はリュックを置き、岩の上から、高く、高く飛び込んだ。うまく飛び込んで数メートルの海底から水上に頭を出すと、枝理が向こうから笑顔で拍手をしていた。夏彦はたち泳ぎで枝理のほうへ泳ぎ寄った。
 叔父さんは何でもできるね、と枝理が笑った。何でも?夏彦は首を傾げる。島の料理を作るのは上手だし、魚も獲れるし、海にもこんなに深く潜れる。死んだサンゴの効用も知っている。枝理は指を折って数え挙げた。島に暮らす夏彦が出来る普通の事。都会の人間が、満員電車で立ったまま眠れたり、首都高で二車線越えの斜線変更を軽々やってのけたり、美味しいレストランを知っていること。同じことだと夏彦は思う。都会の人の体に高層ビル並みの疲れが溜まっていくように、夏彦の体についた島の甘い薫りは、死んで灰になってもまとわりつくだろう。

 「静か」
夏彦が手渡したパンをかじりながら枝理が言う。水着のまま岩場に腰を下ろし、夏彦の目も気にしない。
 「―楽園にいるみたい。」
 緑の生い茂る樹々のあいだから空を見上げ枝理がつぶやいた。時折啼く鳥のさえずり。真っ青な波のない海。アダムとイブは誰?

 「でもね、雨に濡れた夜の東京タワーも、ここと同じくらい捨てがたいの」
都会っ子の愛しい姪が、そう言ってまばたきをした。水滴が、肩から腕に伝って落ちた。

 夏彦は、見た事のない夜の、雨上がりの東京タワーに思いを馳せる。テレビで見る、いつも赤くポツンと光るお決まりのあの鉄塔を、夏彦は肉眼で見た事がない。夏彦にとってあの赤い塔は、ぼんやりとして現実味がない。夏彦の愛するこの海も、フィルタをかけた平たい写真のように都会の人には映るのだろうか。
 夏彦の暮らしはずっと変わらない。暑い夏に汗を流し、長い夜に酒を飲んで風に当たる。目を閉じても背を向けても、そこには波が寄せては引いている。悲しいことがあって泣いても、雨が降っても、恋人が去っても、それは変わらない。だから夏彦は安心して眠ることができる。たとえその波の音が聞こえなくても。
 この目の前の姪のように、愛してやまない、この島、この自然、この普遍、この、楽園。夏彦はふと思う。
―それとも、どこか別の場所が?


夏彦と岩場からの帰り道に歌った歌はなんだったろう。
 枝理はぼんやりと考える。
 聖たちは今夜から、予約したリゾートホテルに泊まっている。
 昼間、岩場の陰とはいえ泳ぎすぎた枝理は、幸い持ってきていたもう一枚の水着をつけて日に灼けた痛々しい背中をさらけ出し、夏彦にシーブリーズを塗ってもらっていた。枝理はその夜一晩、椅子にもたれかかることも、仰向けに眠ることもできない。火照った肩には、扇風機の風さえ刺さるようだった。
 「枝理ちゃんは、どうして自分に『枝理』って名前がついたか知ってるかい?」
弱々しい姿の枝理をなぐさめるように、冷えたジュースを手渡しながら夏彦がそばに座った。夏彦は、枝理が生まれた日の話をしてくれた。
 夏彦の姉の夏子、つまり枝理の母親が出産のために里帰りしてきた二十年前の夏、その年は台風の当たり年で、島は何度も暴風雨に見舞われた。枝理は、嵐の夜に産まれた。
「こんな天気にアルバイトに行くのかい」
姉たちに呆れられながら、割のいい夜間のポーターのアルバイトを、夏彦は気に入っていた。今はもうない、当時島に一つしかなかった小さなホテル。
 出かける前に大きな腹をした夏子が、「芸能人と一緒の飛行機だったの」と自慢げに話していた。今にも産まれそうな腹をしていたが、予定日まではあと二週間ほどあるのだと笑っていた。一人目の聖のとき超がつくほどの安産だったせいか、それとも島の女の気質なのか、夏子は終始朗らかだった。そんな、おそらく胎教にはすこぶる向いているらしい性格の夏子の傍らで、島の強風に膝を抱えておびえる幼い聖を不憫に思いつつ、夏彦は出かけた。テレビの中で気象予報士が、大気の状態が不安定だと伝えていた。

 夏子の言っていた「芸能人」の一行は、勤務についてすぐ判った。それらしき集団が、すでにロビーをせわしげに行き来していた。夏彦は淡々と業務をこなしながら、その一行を、単に若者らしい好奇心から、こっそりと観察した。透けるように色の白い、映画か何かで見覚えのある女優のそばで、てきぱきと動き回るヘアメイクの女性がいた。利発そうな顔立ちで、年は夏彦と変わらないくらい若かった。夏彦は、女優よりも彼女のほうに目が行った。
 夜通しの仕事を終えて家に帰る頃には嵐はやみ、枝理が産まれていた。
 出掛けの姉の様子を思い出して夏彦はびっくりした。
「私たちこそびっくりさあ」
上の姉二人はまだ独身だった。
「何べんみても、赤ん坊は可愛いねえ、欲しくなるねえ」
言い合う姉たちの後ろから、夏彦ははじめて枝理を見た。よく眠る大人しい子だった。
「あの夜、嵐で木の枝がしなるのがきれいでねえ」
夏子は枝理の横で休みながら言った。
「『枝理』って名前は私んなかですぐ決まったさあ」
あとは父さんに電話で了解とらなきゃねえ、と呑気に笑った。

ホテルでは、しょっちゅう荷物を頼まれるので、いつしか夏彦は彼女と口を利くようになっていた。恋に落ちるのに時間はかからなかった。ロビーを通るとき、常に彼女は夏彦と目が合っていたし、会話をするようになるずっと前から、夏彦は彼女に惹かれていた。彼女が結婚していることを知ったのは、彼女が島を去った後だった。彼女からの手紙で、夏彦はその事を知らされた。さらにお腹には、すでに子供を身ごもっていることも。彼女は、さよならのつもりでその手紙を送ってきたのだと、夏彦は悟った。けれど、夏彦の、夏彦たちの恋は、そこでは終わらなかった。彼女のいる東京へ、追いかけていくことも考えたが、夏彦は島から離れなかった。彼女はまとまった休みが取れると、夫には別の仕事と称して島へとやってきた。彼女とは二年前に別れた。夫ではなく、彼女の高校生の息子が、彼女の不実に感づいたからだった。

「別れた後、どうしたの」
枝理は訊いた。

夏彦の口からは意外な答えが返ってきた。

「教会に通った」

どうしたらいいかほんとうにわからなかった。
島の南に立つ、島で唯一の教会。夏彦は毎朝礼拝に通った。家に帰れず、夜も教会へ行き眠ったこともあった。或る時、礼拝用の堅い椅子でいつしか泣きながら眠ってしまい(この頃の夏彦は、男の癖によく泣いた)、体中に鈍い痛みを覚えながら目が覚めた。この世に、永遠なんてない。永遠に続くと思っていた彼女との恋は、壊れてしまった。それなのに、どうして飽き飽きするほどこうして毎日きちんと夜は更け、そして朝が来るのだろうか。まるで永遠を肯定するみたいに。夏彦は神様に八つ当たりしたい気持ちだった。夏彦の目は年々悪くなる。これは神様の罰なのだろうか。充血した目に朝日が沁みるのを押さえていると、遠くで猫の啼き声がした。
 島に猫?
 夏彦は顔をあげた。
 本土から連れ込む以外、この場所に猫がいることは考えられない。島に猫はいない。観光客の飼い主から逃げ出してしまったのか。小さな小さな白い猫。夏彦はその毛むくじゃらを拾い上げた。ミャーミャーといつまでも啼く。
「啼かないで」
 いつしか夏彦は、飼い主のない弱者を慰めている。
 次の日から、猫は夏彦と一緒に住み始めた。

 夏彦の話を聞きながら枝理は昨晩、そのまま居間で眠ってしまい、気付くと朝だった。いつの間にか敷かれた布団の上に枝理は横たわり、背中には柔らかいタオルが掛けてあった。起き上がるとき、背中が少し痛んだが、熱はだいぶ冷めていた。開け放した窓からの島の風が心地よかった。枝理は髪をその風に任せて庭を見た。昨晩、恋人の話をした夏彦が、庭の畑で水撒きをしていた。時計を見ると、八時半を廻ったところだった。部屋中に玉子焼きのいい匂いがした。
「起きたらもういっかい薬を塗ってあげるよ」
起き出した枝理に気付いた夏彦が声をかけた。
 枝理は、まだ少しねぼけた頭のなかでふと考えた。夏彦の家には、昔も今も何かにつけ親類縁者がよく集まる。しかし、夏彦自身は、普段この家にたった一人で淋しくないのだろうか。夏彦は、枝理に比べてずっと大人だ。だから淋しくないのだろうか。それとも。独りでいるのは自分への罪だと思っている。と思うのは大袈裟だろうか。でも、と枝理は心のなかでつぶやく。-楽園には、アダムとイブが居なければ。
 猫が目の前をまた、通り過ぎた。枝理の起きる時間を、知っているかのように。
 あの日礼拝堂にいた猫が、拾い主とともにここに居る現実。昨日の夏彦の話はまるでおとぎ話のようで、その中から出てきた、主人公と、猫。その「主人公」夏彦が、水撒きのホースで霧のように細かい飛沫を枝理の背中に向かって飛ばした。家の中まで水が跳ねるのもおかまいなしだ。いつもなら逃げ出すところだが、火照った背中にその霧状のシャワーが丁度良くて、枝理は動けずにいる。夏彦はすぐそばまでやってきて、「起きたかい?」と訊いた。
 枝理が返事をサボっていると夏彦がふたたびホースを向ける。今度はさすがに悲鳴を上げ飛び起きた。そんな枝理を見て夏彦が笑う。そのままふざけあう二人を不機嫌そうに猫が一瞥する。やがて、夏彦が雑巾を持ってきて、せっせと床を拭きはじめた。枝理も素直にそれに倣(なら)う。ここでは水遊びをしても誰も叱らない。そのかわりに、片付けるのも自分たちだ。

 遅めの朝食の後、枝理と夏彦は昼寝をした。昼寝といっても、時計の針はまだ午前中を指している。「私たち、世界一怠け者だね」枝理が笑った。
 日灼けの熱が多少冷めた枝理は、今日は仰向けになることができる。夏彦は昨夜話疲れて、横になってすぐ色のない夢を見た。枝理は勝手に、そんな夏彦の身体を枕にして横たわっていた。眠りはじめると枝理が面白がって喋りかけるので、夏彦はなかなか熟睡できない。夏彦が文句を言うと、声が腹に響くと耳を当てて枝理が笑う。枝理が夏彦に訊いた。
「今もその人のことが好きなの。」
「わからない」
夏彦が答えた。「もう、諦めたから」
考えないようにしている、というのが近いかな、と彼はつぶやいた。
「それから恋はしたの?」
「何度かね」
夏彦は曖昧に答えた。枝理は、本当かどうかわからないと正直思った。夏彦が大恋愛をしていたことを、枝理は半ば信じられないでいた。
「今は?」
枝理が訊いた。「今は誰かいるの、好きな人」
「今は誰もいないよ」
夏彦は目を閉じたまま答えた。
「淋しくない?」
言いながら枝理は、自分の訊きたい事は、もっと他の言葉のような気がした。 
「慣れてるから、淋しくないよ」
夏彦は微笑んだ。

 それから枝理は、何か歌ってよ、と夏彦にせがんだ。
「声がお腹に響いて面白いの」
夏彦は、島の古い歌を歌う。すると枝理はその声に引き込まれるようにまた、眠ってしまった。歌を続けながら夏彦が、そっと枝理を見やる。マニキュアが器用に塗られた指先は、見事に脱力している。自分の腹からそっと彼女の頭を外し、奥の部屋から羽織り物を持ってきてかけてあげようとして、夏彦は無防備な枝理の寝顔を見下ろした。
-このまま枝理に、接吻したらどうなるかな。
 可笑しな考えが自分の頭に浮かんで、夏彦は慌てて打ち消した。枝理には言うまい。笑われるに決まっている。浜からは心地よい風が吹いていた。いつしか夏彦も、また浅い眠りについた。

 どのくらい時間が経っただろう。遠くで、波の音がする。いつの間にか随分眠りこんでしまったような気がするが、陽の差し方で、まだ昼前だろうと夏彦は予測し、ぼんやりとした頭のなかで夏彦は少しだけほっとした。枝理は何度か寝返りを打ったらしく、いつの間にか夏彦のそばを離れ、海の方を向いて独りで寝ていた。瞼の開ききらない灰色の景色の中、横たえた枝理の後ろ姿は、浜に泳ぎ着いた物語の中の人魚姫のようだった。まるで泳ぎ疲れて倒れているようだ。膝丈の柔らかい生地のワンピース。長い髪。その影が、突然むくりと起き上がった。文字通り「はっ」と目覚めた感じで、上半身がぴくりと跳ねるようすがまるで本当の人魚のようだった。振り返って夏彦を認めた枝理は、次に時計の針を確認した。
「もうお昼か。」
つぶやくように枝理が独り言を言うのが聞こえた。夏彦は、中途半端な意識のまま目を閉じていた。
立ち上がった枝理は、目を擦りながら夏彦の様子を見に近づき、次の瞬間、彼女はほんの一瞬、夏彦の唇にその唇で触れた。
ふわり、とした風が夏彦の頬をなでた。夏彦は勿論何が起こったか解っていた。しかし、咄嗟の事に、目を開けて良いものか悩んだ。そして実際、たった今目を覚ました振りをして枝理に声をかけることはできなかった。枝理はそのまま、部屋の外に出て行った。残された夏彦は、大の字になったまま、起き出すタイミングを逃してしばらく動けなかった。

 部屋の古い時計が十二時を打った。
「叔父さん」
枝理の声がした。
 仕方なく居眠りを続けていた夏彦が目を開けた。同じような夢を何度も見た。
「泳ぎに行って来るね」
枝理はカットオフのジーンズに、水着姿だった。「すぐ前の浜で泳ぐだけだから」
「ああ」
伸びをしながら夏彦は返事をした。「日灼けは大丈夫かい」
枝理くらいの年の女の子は、灼きたがらないのが普通だと思っていたので夏彦は訊いた。
「うん、もう痛くない」
枝理は、気にしていないようだった。
 夏彦は、枝理が出かけた後、ようやく安心して起き上がり、台所まで歩いて行き麦茶を飲もうとして冷蔵庫を開け、そしてやめた。今、枝理が触れたこの唇を、何となく拭う気になれなかった。

 午後二時ごろ、お腹が空いて家に戻った枝理は、夏彦の不在に気付いた。冷蔵庫に書置きがあり、マグネットで貼り付けられていた。
『聖君たちが今晩来ることになりました。夕飯の買い物に行ってきます 夏彦』
 聖たちは、夏彦の家を余程気に入ったらしく、帰る前にもう一泊させてほしいとホテルから連絡をしてきたのだった。
 涼しい台所のテーブルの上に、枝理のための昼食が用意してあった。ラップをはがすと枝理は少し冷えたその炒め物を一口、つまみ食いした。夏彦の炒め物はいつも美味しい。人差し指と親指を交互に舐めながら枝理は、身体についた砂を流すために浴室へ向かった。

 夕刻近くなると、遠くでにわかに雷鳴がした。枝理はわけもなく不安になった。辺りを探したが猫は見つからない。家じゅうの窓を閉め終わると同時に雨が降り出し、枝理は窓際に頭を寄せ、雨を見ていた。そのとき、玄関でガタガタと騒がしい音がし、夏彦が帰ってきた。買い物のビニール袋が擦れる音と、大きな足音。その音は台所から浴室へと消えた。窓のすぐ外で、稲妻が縦に光っている。本降りになった雨は風によって方向を変え、枝理のいる窓に寄ったり離れたりする。子供の頃、聖と一緒に窓から稲妻を見ながら、光と音の間隔を声に出して数えた。
「エリちゃんは全然カミナリ怖がらないからつまらないよ」
いつか兄の友達に言われたことを思い出す。ガキ大将的存在の人気者で、背の高い、丸坊主の、色の黒い男の子だった。聖と仲が良く、ある時期まではよく枝理の家に遊びに来ていた。ある日、聖とその彼と三人で雷を一緒に見ていたとき、聖がいなくなった隙に、枝理はその子に突然抱き締められた。中学生のときだった。
 あれは彼の気紛れだったのだと、そのとき十三歳だった枝理は思い込もうとした。夕立が来るとわけもなくドキドキする、あの高揚感を、彼は恋心と勘違いしたのかもしれない。その子はその時、枝理に向かって好きだとかいうようなことを言ったような気がするが、枝理はいつ聖が戻ってくるか気が気でなくて、そのときの彼の話をまともに聞くことができなかった。その日以来、彼は枝理の家に遊びに来なくなった。
 さっきどうして、夏彦にキスをしたのだろう。雷鳴も鳴っていないのに。枝理は窓の外につく水滴を内側から右手の人指し指でなぞった。まるで小さな蝸牛のようにゆっくりとガラスの上を滑り落ちる一滴は、他の一滴と結びつき、そのスピードを増して下方へとみるみる落ちていく。枝理は水滴を途中で追うことをやめ、また次の一滴を追いかける。稲妻は力強かったが、雷鳴は思ったより遠かった。

やがて浴室の熱気といつもの石鹸の匂いを運んで、夏彦がやってきた。
 枝理は、急に心臓の音が高鳴るのを感じた。何も知らない夏彦は、いつものように口元に笑い皺を寄せ、濡れ鼠になって帰ってきた自分を照れくさそうにして頭をタオルで拭きながら、枝理のそばに寄ってきた。
「おかえり」
 その笑顔を見て、枝理は何とかふだんどおりに言うことができた。
「すごい雨だね」
枝理が言うと、
「大丈夫、すぐやむよ」
そう言った夏彦の横顔が優しかった。

 そばで、夏彦がいつまでもごしごしと髪を拭いている。何か話してくれたらいいのにと枝理は思う。黙っていたら、心の中で何かが進んでしまう、そんなふうに枝理は焦った。枝理は夏彦の手の甲や、肩や、腕の筋を盗み見た。夕立のせいなんかじゃない。あの十三歳の日のことも、そして今も。枝理は、夏彦に惹かれ始めている自分に気付いていた。


 夏彦が最後の順番で入浴した後、居間に戻ると、聖たちの姿はなく、枝理が一人で背中を丸めて新聞の社説を読んでいた。
「受験生はよく天声人語を読めっていうじゃない」
夏彦に背を向けたまま枝理が言った。歩きながらビールを一気飲みしていた夏彦が立ち止まって枝理のほうを向いた。急に足を止めたので、缶の口がくぴっと音をたてた。
「小学校のときの担任の先生には、社説を読めって教えられたの」
夏彦は返答に困って、そう、と頷いた。

「聖君たちは?」
「散歩。」
枝理が海のほうを指さした。
「ふたりっきりでホテルに居ればいいのに。どうせ新婚旅行みたいなもんなんだから」
 枝理はぶつぶつとつぶやいたが、
「でもきっと、叔父さんの家がよっぽど気に入ったんだね」
と、夏彦を気遣うようなことを言った。
枝理が夏彦を褒めていることは夏彦にも判った。か細く女らしい外見とは裏腹に、意外と不器用で照れ屋な性格の枝理を、夏彦は好ましく思った。
「枝理ちゃん」
テーブルの椅子に腰かけていた夏彦が、ビールを飲み終えて立ち上がった。
「お土産があるんだ、来てご覧」

枝理は初めて、夏彦の部屋に案内された。東南の、鎧戸のある涼しい寝室。この家でいちばんに朝陽が差し込む、贅沢な部屋。家の主がいちばんいい部屋に住むのは当然だが、それにしてもこんないい部屋があったなんて。枝理は見とれるように天井を目線であおいだ。夏彦が引き出しを探る間、枝理は壁際で夏彦の部屋を見渡した。
 夏彦が小さなネックレスを差し出した。枝理の手の平にそっと置かれたそれは、クロス(十字架)だった。
「きれい・・・クロス?」
「・・・そう」
夏彦の声は乾いて、少し掠れていた。
枝理はしばらく、手の上の装飾に見入っていた。夏彦は枝理の手からクロスを拾い上げ、彼女の首に着けてあげた。夏彦の腕が、彼女の首筋に触れた。彼女は少し頭を垂れて彼のし易いように首を傾けた。着け終わった後の枝理を、夏彦が見た。枝理が、夏彦を見返した。枝理が目を閉じたのと、夏彦が彼女に接吻をしたのはほぼ同じ瞬間だった。最初は、唇の先で軽く触れるだけだった。昼寝のときの続きのような、短いキス。枝理の瞼が少しだけ開いて夏彦を見た。橙色の灯りの下で睫毛の先が湿っているように見えた。間をおかず夏彦の唇はふたたび枝理を捉える。今度は長く甘いキス。夏彦は、枝理を身体ごと捉えて離さない。初めて味わう夏彦の唇は、想像していたとおり、熱かった。緑の森を、手を繋いで歩くときも、日灼けした背中に薬を塗られている間も、枝理はずっと、夏彦の乾いたこの唇に、触れて欲しいと思っていた。
そのとき、外で聖たちの帰宅する物音が聞こえた。枝理が、はっとしてその唇を離した。慌てて部屋を出ようとする枝理を夏彦が止め、部屋の灯りを消した。聖たちは、枝理たちがもう寝入ったと思ったらしく、ひそひそ声で話しながら自分たちの部屋の扉をそっと閉めた。

再びしんとした広い部屋の中で夏彦は、頼りない自分の心に自問した。けれどもうキスを止められなかった。夏彦の影が下りてくると同時に枝理の眉間に浅い皺が寄る。そしてその濡れた睫毛を、枝理は自ら閉ざした。

慶之は今日も学校から、終電ぎりぎりの電車で帰宅した。部屋の灯りを点けずテレビの明るさだけで、鏡の前で無精髭を触りながら慶之は考えていた。
 ここのところ研究室帰りで帰りは遅い。やっと一段落着いたのは、恋人の枝理が島へ発って三日後のことだった。今からでは、とても彼女には追いつけない。慶之は彼女の旅のスケジュールを見て心底がっかりした。
部屋のソファに座る。隣に枝理が座ることもある椅子。
彼は、彼女が島でどんなふうに過ごしているか知らない。
彼は、大好きな彼女がそこに居るつもりで片腕を伸ばす。ときどき、彼女なしでは居られない、と彼は大袈裟に思ったりする。夜中に急に会いたくなってバイクを飛ばすこともある。
そんなときは、眠そうな彼女を一目見て、五分で引き上げたりする。
 枝理に初めてキスをしたのは、車の中だった。
 何度目かのデートで、慶之は彼女がとても好きになった。友達としていつものように食事をした帰り道、「帰したくない」と思ったとき、慶之は枝理と恋に落ちた。
枝理はその日、髪の先をカールしていて少し大人っぽかった。笑ったり箸を持って頬杖をついたりするたびに髪が揺れた。同い年なのに、彼女は彼より年上に見えた。
彼女は会うたびに雰囲気を変えて見せた。Gパンのときもあったし、今日みたいに、大人の女性の恰好をすることもあった。
透明のネイル。整えられた眉。艶のある茶色の髪。胸元の一粒ダイヤのネックレス。
帰り道、彼がいつものように車を停めた後、彼女は送ってもらった礼を言って車を降りようとドアに手を掛けた。ところが、その日に限っては、慶之は、何の話だったかは忘れたが、車の中でいろいろ話を始めた。長居をためらってしばらくドアの取っ手から手を離さなかった彼女はやがて、その手を離し他愛のない彼との話に興じた。
慶之はずっと探していた。
キスをするタイミングを。

ある瞬間、シート深く沈めていた背中を、慶之がにわかに起こした。枝理は何かについて一生懸命話していたが、顔は車のフロントガラスに向かって真っ直ぐに向いていて、その表情は髪に隠れて慶之のほうからは見えなかった。慶之は左手ではじめてその髪に触れた。はっとして、枝理が慶之を見た。慶之はそのまま無言で彼女の顔を引き寄せた。

はじめからディープなキスをした。
その日は、大人な彼女、に負けないように。
彼女は抗わなかった。
慶之は彼女のシート横に手を伸ばして彼女を抱き寄せ何かをつぶやいた。「何?」と彼女が訊いた。吐息が耳にかかりくすぐったかった。身体を離してから、照れたように彼は少し、笑った。

慶之はふと思いついて、ソファ脇のテーブルに置いた電話に手を伸ばす。それから腕時計の針をちらりと見て、彼は心の中で小さく舌打ちをする。もう終電も終わってしまった時間。彼は叔父の家に居る彼女への電話を諦めた。

日灼けした枝理の背中を、橙色の小さな灯りが燈す。
枝理は、不慣れな部屋で、なぜか誰かに見守られているような宗教的な部屋で夏彦を受け入れた。そのとき初めて枝理は夏彦を名前で呼んだ。声を上げそうになると夏彦は枝理の唇をその乾いた大きな手でそっと押さえた。

明け方、枝理が目覚めると夏彦は居なかった。
枝理は身体ごと包まれた紗の中で、ぼんやりと視線だけを動かして辺りを見回した。
しんと静まり返った東向きの夏彦の部屋。
鎧戸からわずかに覗く空は白みかけていた。

枝理は、夏彦が今まで居たであろう布の窪みに手を触れた。
目線の先に、夏彦の代わりに夏彦の猫がいた。心もとない彼女の心中を知ってか、めずらしく猫は枝理のそばに寄ってきた。
枝理は静かに猫を引き寄せ、自分の首のクロスを外し、持ち主に返した。

それから枝理は聖たちを起こさないように部屋を出てシャワーを浴びた。
冷水を頭から浴びながら枝理は、夏彦の行き先は、知っているような気がした。

落ちこぼれの信者

蒼ざめた明け方の空に向かって建つ、島で唯一の教会。
夏彦は夜明け前にここにいた。
辺りはまだ薄暗く、しんとしている。
重い戸を思い切って押してみると、入り口の扉は、開いていた。夏彦はおそるおそる中へと入った。
―相変わらず、無用心な教会だな。
開いているのは自分のように罪深い者のためなのか。教会は以前と変わっていなかった。
正面に苦悩するキリストの画。左手前にはマリア像。背面にはステンドグラス。
燃え尽きた沢山の蝋燭と、神父の居ない説教台。

洗礼を受けてからどの位経つだろう。かつて足繁く通ったこの教会も、彼女の思い出が沁みついてしまい、いつしか遠ざかっていた。

夏彦は礼拝堂の椅子に座り、眠るように祈った。

昨晩、兄妹たちの幼い頃の夢を見た。
 小さな子供たちが、スコールが上がった後の濡れた緑の樹木の間を、白い砂浜を、無邪気に駆け回っていた。それは、いつもモノクロの夢ばかり見る夏彦にしてはめずらしく、濃い色のついた艶やかな夢だった。幼い兄妹は、かつての聖と枝理だ。その枝理が、今、隣で眠っている。
 夏彦は、はっと目覚めずにいられなかった。

―懺悔をしようとしているの?
 目を閉じて、組んだ両手を眉間に当て祈る夏彦の耳に、枝理の声が聞こえる気がする。

―何のために祈るの?自分のため?

 夏彦は心の中で答える。
 自分に後悔は無い。
 人を傷つけるのが辛い。―それだけ。

―神様は楽園と同じよ。そこにあると信じる人の心にあるのよ。
あなたが何処で祈ろうと、どんなに遠い土地で生きようと、あなたの罪は消え去ることはない。その罪も。そして癒しも、幸福も安息も、痛みも愛情も。すべてはあなたの中に。

それでも、夏彦は目を閉じる。祈らずにはいられない。
愛する者たちの、平和と安息を。
それで自分が何かを得ようとは思わない。
いつか自分の目が見えなくなって、身体が衰えて、すべてが灰になって浜辺の砂となる日まで、往き続けるだけ。何も残さない。何も求めない。ただ、与え続けよう。その覚悟は出来ているから。―初めて恋をした日から。

―人は賢く、ずるく、そして決して懲りない生き物。あなたも、そしておそらく、私たちも。
 それでも、人は人をたまらなくいとおしいと思うもの。
 だから、往き続けることができるのよ。たとえ楽園を追われても。

僕は本当に、ずるく、懲りない生き物かもしれない。
 それでも、往き続けていかなければ。親愛なる誰かのために。
夏彦は両手を強く握り締め、目を閉じたまま深く息をした。

そのとき、枝理が島に来てから、しょっちゅう歌っていた鼻歌を、夏彦は今頃になって思い出した。そしていつのまにか、夏彦は頭のなかで一緒に口ずさむ。

Ain’t no mountain high enough
Ain’t no mountain high enough

―ローリン・ヒルが映画の中で歌っていたのよ。

 たしか枝理はその時、夏彦の前を水着とカットオフジーンズ姿で緑の草むらをかき分けていた。ピクニックからの帰り途だった。

「それエイゴなのか?英語に聞こえなかったぞ」
夏彦が言うと、枝理は頬を膨らませて振り返った。

 ―ひどーい。

 夏彦は礼拝を忘れ、独り長椅子で思い出し笑いをした。

 集中力が無くなる。
 やっぱり自分は落ちこぼれの信者だと思う。

七.羽田

いつものように太陽が高く上がると、午前中のうちに聖と吏子、そして枝理たちは慌しく旅支度をし、あっという間に夏彦の住処を去って行った。
 昼過ぎ、本州直行便が空の向こうに飛んでいくのが見えた。
 夏彦は、彼らが居た部屋を掃除し、畑を耕しなどして忙しく身体を動かした後、夕刻シャワーを浴びた。シャワーの途中で石鹸が切れていることに気付き、びしょ濡れのまま風呂を出て戸棚を探した。ひと声かけて新品の石鹸箱を開けてくれる者も居なければ、水浸しの床を叱る者もここには居ない。風呂を出て、濡れた床を自分で拭きながら夏彦は、久方ぶりの独りを味わう。ほっとするが、客が去った後はやはりいつも少し、淋しい。
 甥と姪たちが去って、夏休みには今度、別の親類たちが大勢訪れることになっている。夏彦の家は、一年中そんなだ。

 目の悪い夏彦は、風呂を出てから眼鏡をかける。枝理たちがいる間は、何故かかけずにいた黒縁の眼鏡。眼鏡をかけると、自分が少し老け込んだ気がするのを否めない。

 嵐が来る前のような生温かい風が吹く。夏彦の猫が、風雨を予期して、縁側へと避難してきた。首に何か光るものを見つけた。
 嫌がる猫を摑まえて確かめるとそれは、枝理に渡したはずのクロスだった。

 到着便の乗客がいっせいに、荷物着口へ歩んで行く。夕刻は発着のピークで、空港内も混雑している。枝理はこの、羽田空港のざわめきが好きだ。同時に、ああ帰ってきてしまったと、旅の終わりを実感し、心底がっかりする。とはいえ、慶之が迎えに来てくれているはずだ。最後の荷物がなかなか出てこないので、聖が、吐き出し口で腕組みをし立ち往生をしている。吏子は離れたところで、少し疲れた表情で腰を下ろしている。買い物好きの彼らは(しかし何を買ったのだろう)、帰り際、まるで本当の新婚旅行にでも行って来たかのような大きな荷造りをしていて、枝理は呆れた。退屈顔の聖を尻目に、枝理も他の乗客たちに交じり、電話を取り出し慶之に連絡を取る。
 ワンコールもしないうちに、慶之が出た。
「着いた?」
 その声に枝理は少し高揚した気分になった。「うん、今着いた」
「俺、ロビーにいるよ」
「わかった」
ありがと、と枝理は素直に礼を言った。

ねえ、と枝理が言った。何か言おうとして、やめる。涙が出そうになって、枝理は慌てた。
「何だよ」
いつもと変わらない慶之の声がする。―会いたかったんだぜ、という風に枝理の耳には響く。
枝理は気を取り直して言う。
「お兄ちゃんたちの荷物がすごいの。驚かないで」

カートに載った聖たちの荷物を見て、慶之は実際大笑いをした。ボストンバッグ一つの枝理とは大違いだ。それでも、
「俺、今日バイクで来ちゃったから・・・」
と申し訳なさそうに言った。

いいよ、いいよ。と笑って、聖たちは目の前でタクシーを摑まえた。
枝理たちは聖と吏子の乗ったタクシーを見送って、慶之のバイクへと向かう。
「向こうは楽しかった?」
慶之はしらばっくれて人混みのなか枝理の髪にキスをする。
「うん」
枝理は応える。返事をするので精一杯だった。
「海とか、キレイなの」
「海、すごいキレイだよ」
鸚鵡返しのように枝理は、返事のかわりに慶之の言葉を繰り返す。喉の奥からまた何かがこみ上げる。泣いてはいけないと、咄嗟に思う。
「いいなー、俺も行きてえなー」
枝理は、慶之の言葉には答えずに前へと進む。

浮気しなかったか。わざと神妙な表情を作りながら慶之が訊く。いつもの冗談とわかっていた。笑って答えない枝理に構わず、慶之は枝理の胸元まで鼻を寄せくんくんさせて、「ん、浮気の匂いがする」とオーバーアクションしてみせる。
 枝理はそばを行き過ぎる人目を気にしつつ笑ってただ首を横に振るばかりだ。
 慶之はそれでも、久しぶりに会う枝理とじゃれていたくて仕方がない。
「そういえば、慶之によく似た猫がいたわ」
 枝理が思い出したようにつぶやいた。
 猫?抱きついていた枝理から体を離し、慶之が顔を上げた。そして、改めて枝理の目を見、ふいに真面目な表情になった。
「―枝理、日に灼けたな」

「―そうかな。」
枝理は、夏色に灼けた自分の細い腕を見た。そしてまた、慶之にはわからないように、少し感傷的な気持ちになった。

―枝理。
 温かい、乾いた唇から発せられるあの声を聞いた気がして枝理は振り返る。
 そばを、都内行きの急行バスが行き過ぎた。

「あ、そうだ。今度またあの鎌倉のホテル行こうな」
思い出したように慶之が言った。「今度は、枝理の好きなバイクで」
「―そうね」
枝理は答える。つぶやきながら、今のは少し大人びた返事だったと枝理は思った。
「気持ちいいぞー。五月の鎌倉は」
 慶之が無邪気に言った。
「五月、って来月行くの?」
「そうだよ」
慶之は平然と答える。
「俺だって枝理と楽園気分に浸りてぇもん」
なっ、と言いながら、慶之は枝理にヘルメットを手渡した。

「ゴールデンウィークは、混むわよ」
ヘルメットを被らされながら枝理はもごもごと答える。
慶之は、大丈夫、と妙に確信めいた瞳で枝理を見つめた。しかし、
「もう予約してあるから」
という慶之の言葉は、唸り出したエンジン音にかき消され、枝理の耳には届かなかった。

 楽園とは無縁の都会の温い空気が、二人の頬を撫でる。
 走り出して間もなく枝理は思わず微笑んだ。
遠くに、枝理の好きな東京タワーの橙色が見えた。

手紙

春の連休にやってきた甥と姪たちが去ったあとしばらくして、夏彦の家はふたたび、そしていちだんとにぎやかになった。夏休みに入り、総勢十名の親族たちが、いっせいに訪ねてくることになっている。
久しぶりの喧騒。その日の午後、静かな夏彦の家は別世界になった。
赤ん坊を抱えた若い母親が扉を開けられずにいるのを、夏彦は自身の身体を盾にして扉を支えてやった。
「ありがとう。」
母親とは思えない若さで彼女はバラ色の笑顔を見せた。ちょうど、髪を切った枝理みたいに見えたのは、首から提げたクロスのプラチナネックレスのせいだろうか。彼女は、南の島への久々の旅行だといって張り切ってお洒落をして来たように見えたが、どうやら額も服もすっかり汗だくになっているようだった。親類縁者がごちゃまぜになったなかで伯母が言う。
「あの子は横浜の枝理ちゃんと同い年だよ。もう子供が三人も居るんだ。昔は不良娘でどうなることかと思ったけど、今はほら、あの通り。根は素直でいい子なんだよ。」
伯母の話に相槌を打ちながら、夏彦は視線を外に投げた。彼女の三人の子のうち、二人はもう浜辺を駆け回るほどに大きい。初めての南の島で興奮気味に跳ね回っている。
混雑ついでに郵便配達までやってきた。中に、一通の絵葉書が混じっていた。
美しい海の写真のエアメイル。枝理からだった。

夏彦は、海辺へと出かける客人たちを見送ったあと、ひとり家に入った。
海風の通る庭先に座り、愛しい姪の筆跡にゆっくりと目を通す。

「夏彦叔父さんへ
 今、慶之君と初めての海外旅行で南の島に来ています。ここは楽園のようです。
 夏彦叔父さんの楽園は、見つかりましたか?

 ―ERI NIREZAKI 」

 今の夏彦にそれがあるとしたら、枝理が居たこともあるこの島だと彼は思う。
 夏彦は、悪くなった目から眼鏡を外した。無造作に下ろした髪を、風に吹かれるままにする。

 楽園の夏は、始まったばかりだ。(了)

あとがき
20代の頃、初めて訪れた沖縄が素敵すぎて、何かカタチに残したいと思い、初めてちゃんと書いた小説です。つたないお話を読んでくださりありがとうございました!また他の作品も読みに来ていただけたらうれしいです。(蒼井氷見)

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