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有害糞バンギャだった私が社会派ライターになって出版&1年で9刷り重版できた本当のワケ

ご存知の方もいるかもしれませんが、私はライターデビュー当初、バンギャネタ(バンギャ・・・ヴィジュアル系バンドの熱狂的ファン)の記事を書いていました。私のバンギャファッションやバンギャル活動を面白がった編集者に勧められたからです。当時の私はとにかく文章でお金を稼ぐことに必死だったので、叩かれること覚悟で言われるがままに書きました。案の定、「バンギャのイメージが悪くなる」とバンギャの皆さんから叩かれました。

もちろん、それを覆そうとバンギャの良い面の記事も書きました。しかし、一回ついた悪いイメージはバンギャの皆様からは拭えません。

そんな記事を書いていたのはもう7〜8年前だと思います。とにかくたくさん本数を書かされたこと、必死だったこと、精神をすり減らしていたこと、そのストレスを当時の彼にぶつけてしまっていたことを覚えています。

過去、バンギャの悪い面を書いた記事に関して、ここに深くお詫び申し上げます。

というのも、先日Twitterエゴサをしていたら、とあるバンギャの方が私に対して悪く言っているツイートを見かけたので(それも2018年のツイートでしたが。なんで過去にバンギャの記事を書いていた姫野が東洋経済オンラインで書いているのかと)誤解をときたくリプを送りました。その後その方からDMをいただき、過去の記事に関して謝罪すると「なぜバンギャの悪い記事を書いていたのに発達障害の記事にシフトできたのですか?」という質問もいただいたので、ここに詳しく書こうと思います。

また、余談失礼いたします。私は昔、メトロノームというバンドが好きだったのですが2009年に活休してしまいました。私がまだ大学生の頃です。そのとき好きだったメンバーに「将来はライターになってメトロノームのライブレポを書くのが夢です」といった内容の手紙を書きました。そして10年後、メトロノームが復活ライブを行い、10年前に書いた手紙通り、ライターになった私はメトロノームのライブレポの商業記事を書くという夢を果たしました。

【V系】「時代が追いついた!」メトロノーム ワンマンライブ第10期起動『Please Push Play』レポ【写真満載】

ああ、これで夢がかなった、と燃え尽きた感もありました。ライブ終了後のメンバーさんへの挨拶でも、夢がかなったこととお礼を伝えました。

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現在、私は社会派記事をメインに書いていますが、編集さんや音楽ライターの知人から、この日のインタビューorライブ、行けなくなったから代理で書いてほしいと依頼されたり、ヴィジュアル系の企画があるんだけど自分は詳しくないからお願いしてもいい? と編集さんに頼まれた際は書いています。

さて、なぜ私が有害なバンギャ記事から社会派記事を書くライターにシフトできたのか、詳しく3つ述べていきます。

1つ目

必ず締め切りを守る

当たり前のことですが、ライターさんにはこれができない人がかなり多いようです。中には入稿の真っ最中に失踪してしまう人(所謂飛んじゃう)もいます。

2つ目

最低限のビジネスマナー&一つ一つのお仕事を確実に丁寧にこなす

フリーランスの世界は完全に実力の世界です。そして、編集さんは常に有能なライターさんや今後育てれば有能になりそうなライターさんを求めています。また、編集さん同士、ライター同士、横のつながりがあります。「●●さんというライターさん、良い仕事してくれたよ」という情報を聞けば、その編集さんはそのライターさんに依頼します。

ライター同士でも「あのライターさんすごいよね」という話になって、編集さんから「誰か良いライターさん紹介してくれない?」と言われた際に名前を挙げて編集さんにつなぎます。

私は初期、出版系の飲み会に顔を出して名刺を配って営業していましたが、私にはあまり合わない方法でした。逆に、飲み会に出る時間を仕事に回したほうが次の仕事につながることに気づきました。

特に、週刊SPA!さんはある日突然知らない番号から「●●出版の編集の■■さんから姫野さんの仕事ぶりが良いと聞いたのでお仕事をご依頼したいです」と電話がきて、今でもSPA!さんで書かせていただいています。

3つ目

良い編集さんとの出会い

編集さんの仕事は企画を立てたり、ライターが書いた文章を整えたり修正を依頼したりする仕事がメインですが、「このライターさんにこんな記事を書いてもらったら売れるのではないか」という、少し工夫すれば売れるライターさんの発掘も仕事の一つです。

私が東洋経済オンラインで発達障害当事者ルポを書くようになったのも編集さんとの出会いです。この業界にいると、いろんな著名人とのつながりができます。ある日、評論家の常見陽平さんに誘われて、とあるパーティーにお邪魔しました。パーティー自体があまり得意でない私は隅っこで飲み食いしていたのですが、その際、お声がけしていただいたのが東洋経済オンラインの編集長でした。

そして後日、記事の執筆を依頼され、打ち合わせの際「私、生きづらいんです」と告白すると、では生きづらさをテーマに書いてみましょうということで、発達障害当事者ルポが始まりました。

その連載に書籍化のオファーがきました。それからすぐに2冊目の本『発達障害グレーゾーン』の出版も決まりました。こちらも担当編集さんや扶桑社様に大プッシュしていただき、1年間で9刷りというベストセラーになりました。

他にも、今お世話になっている編集さんでまだ私の中に眠っている「書いたら売れる」要素を引き出してくれる大好きな方がいます。今日はその編集さんと打ち合わせしてきました。


あくまで上記は私のやり方です。過去は変えられませんが未来は変えられます。過去、偏見とも取れる記事を書いてしまった過ちを償いながら今後も物書きとして続けていきます。

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