見出し画像

出産という経験

3週間前に、赤子が誕生した。
予定帝王切開を控えた、38週のある日。
大きなおなかが苦しくて、ふうふう言いつつも産前最後の買い物に行き、夜9時前に食事を済ませた。
妊婦期間最後の晩はおだやかに更けてゆき、翌朝、オレンジジュースを一気飲み。
朝食は食べずに、飲み物は水・お茶・ジュースを8時まで飲んで良いと言われていたのだ。

たくさんの荷物を持ち(夫が)、車で産院へ向かった。とても良いお天気の朝だった。
自宅の最寄りということで選んだ産院は、全室個室。
豪華とまではいわないまでも、小綺麗なホテルの一室といったかんじの部屋に通され、夫は一旦帰宅。
わたしはさっそく浣腸。記憶にある限り初めての経験で、「ぎゃふっ」というかんじ。
初めて着圧ソックスというもの(産院指定)をはき、点滴の針を刺され、毛を剃られ、初めて導尿というものをされた。
これまた「ぎゃふっ」というかんじ。
たまってゆく尿を夫に見られるのだと思うと少し憂鬱だったが、それはのちにどうでもよくなる。
そして、身体中が手術仕様になってゆくにつれて、元気な妊婦から病人のような心持ちになっていった。

夫が戻ってきてしばらくして、助産師さんが呼びに来て手術室へ向かった。
手術室の手前に新生児室があり、そこには保育器があった。
帝王切開で産まれた子は体温調節の面から一晩は保育器に入ると聞いており、
「保育器だ」
と何気なくつぶやいたら、尿バッグを持ってくれている助産師さんが
「保育器、もう温まってますよ〜」
と言った。
あ、今まだおなかの中で動いているこの子のために温めてくれてる保育器なんだ……わたしの身体から出てここに来るんだ……と思い至り、不思議な気持ちになった。

夫に手を振って手術室に入った。
こんなご時世でも、その産院では夫もしくは実母にかぎり立ち会いおよび産後数時間の面会が許されたのだが、手術室には入れないので廊下で待機してもらい、都度様子を親たちに報告する役目を頼んだ。
手術室では医師におなかを縦に切るか横に切るか聞かれ、縦でお願いしますと伝えた。
美容面を考えると横の方が傷痕が目立たないが、縦の方が早かったり子宮の中が見やすかったりするらしい。
色々考えたすえ、へその下が見えるような水着を着る予定はもはやまったくないな、ということで、安全性がすこしでも高そうな縦切りを選んだ。
素っ裸になり、台に乗って横を向き、身体を丸めた。
この段階でわたしは初めて、これから腰に麻酔の針を刺されてそのあとおなかをメスで切り開かれるのだということを現実として受け止めた気がする。
理屈ではない恐怖に、震えがきた。
「緊張してますかー?」
まさかこんなに緊張すると思っていなかった。
身体にメスが入るのは初めてのことだったが、じゅうぶん説明をしてもらっていたし、納得していた。陣痛がなくてよかったと思っていたくらいだった。
胎盤って見せてもらえたりするのかな?とか、自分の内臓の写真なんて撮ってもらえたりしないかなーとかまで考えたほど。
冷静なつもりだったし、なんならちょっとわくわくしていたくらいだった。
でもいざとなると、不安で不安でたまらなかった。
できることなら全身麻酔にして欲しいと思ったが、もはや何も言えない。まな板の鯉になるしかなかった。
腰に麻酔が打たれ、足があたたかくなり、感覚がなくなってく。
おなかを数人の看護師さんが消毒するのが見えた時が恐怖の最高潮。
見える状態でおなかを切られたら怖すぎると思い、ひたすらビビり倒した。
もちろんそんなわけはなく、シートのようなもので目隠しされて手術はスタート。
ちなみに麻酔はとても良く効いた(余談だがお酒は飲めない体質)。
痛くない。痛くはないが、とにかくこわい。
何が起こっているのかを想像もしたくなくて、ひたすら耐えた。
看護師さんが読み上げる血圧がどんどん下がっていくのが恐怖だった。
あんまり血圧が下がったら死ぬのかもしれないと思った。
死とは意志の力で回避できるのだろうかと考え、
「子どもが誕生するのだから、子どもと夫のためにわたしが死ぬわけにいかない。生きなくては」
と自分に言い聞かせてみたりした。意味があったかどうかは不明だが、思い出のひとつにはなっている。
そして数分。
手術室に入ってからだと30分。
痛みはまったくないが、ううっ、と声が出て顔をしかめるような違和感と不快感があった。

「赤ちゃん、もう出ますよー」
と、医師。

ほんとうのほんとうに赤ちゃんがいるの?
と、わたし(もちろん声には出さない)。

「おめでとうございます!」
と、助産師さん。

「ほぎゃーん」
と、赤子。

ほんとうのほんとうにいたのか。
わたしの腹から取り出されたのか。
無事に、生きて誕生したのか。
肺呼吸ができたのか。

色々なことが一気に頭の中をめぐり、その間も赤子はほぎゃーほぎゃーと大声で泣いている。

あふれて止まらない涙を、看護師さんが拭ってくれた。
感動の涙というより、ひたすら安堵だった気がする。
よかった、生きてる
泣いてる
元気そうだ
よかった
無事に妊娠期間を終えることができた
先生、助産師さんたち、ありがとうございます……
言葉にはできない感情を言葉にしたなら、そんなかんじだったと思う。

まだ胎脂でぺとぺとした赤子を、助産師さんが見えるところに連れてきてくれた。
あんまりかわいい顔だとは思わなかったが、顔を真っ赤に、くしゃくしゃにして、おもいっきり手足を伸ばしてばたつかせているその姿を見たらなんだかとても幸せな気持ちと安堵でいっぱいになった。
両腕がさまざまな医療機器に拘束されていたし胸の上にはシートがかけられていたので、抱っこはできなかった。
おでことおでこをくっつけてくれたのが彼女との最初の接触。そして、小さな小さな手と、数秒間の握手をした。
あたたかな手だった。

赤子は連れて行かれ、その間も手術は進む。
「胎盤出ました」
の声を聞いた頃だったか。
身体がガタガタと震え出した。麻酔の時のように恐怖からかと思ったが、寒さからくるようだった。
寒くて寒くて、歯が鳴るくらい震えた。
そして吐き気。
「吐いていいよー」
と受けるものを口元に用意してくれたが、胃は空っぽだし、何も出なかった。
うぅ、うぅ、と小さくうなりながら、胎盤が見たいとか余分なことを言わなくてよかったと心から思った。
すこし早く済むという縦切りを選んでよかったとも。
なんでもいいから早く終わってくれ。
「いま、気持ち悪いところを縫ってるからね、もうすぐ気持ち悪いところは終わりますよ」
と医師が言ってくれた。
気持ち悪さの原因がわかってすこしほっとした。
「気持ち悪いところってどこですか?」
と聞いてみたい、好奇心いっぱいの自分もいたものの、震えと吐き気、それから医師には余計なことに答えずに手術に集中して早く終えて欲しいと思ったので聞くのはやめた。今でもちょっと気になっている。

しばらくして、無事にわたしのおなかは閉じられ、手術は終わった。
病室へと運ばれる途中で、保育器の前で止まってくれた。
生きているなあと思った。わたしも、この子も。それがすべてだ。

部屋に戻っても、腕やら指やら胸やら下半身やら、とにかくたくさんの医療機器につながれていた。
とにかく寒くて仕方なく、相変わらず震え続けていた。
ふだん決して外気に晒されない内臓がオープンになったのだし、胎盤や羊水が出て出血もあったようなので、それで寒く感じるらしい。
電気毛布に包まれながら、我ながら笑えるくらい震えていた。
保育器に様子を見に行った夫は「かなり動いていて元気そうだった」と伝えてくれ、面会時間が終わったので帰って行った。

その晩にわたしは今度は汗びっしょりになって熱を出し、電気毛布の代わりに氷枕を入れてもらった。
麻酔が切れてきたので、プラス3万円の課金をして頼んであった硬膜外麻酔をフル活用して痛みとお付き合い。
なんの感覚もなくてほとんど動かせなかった足は、正座のあとの足首のようにじわじわと感覚が戻ってきた。
腕の血圧計がはずれ、背中の麻酔がはずれ、点滴もはずれ、離乳食のようなおかゆから食事できるようになり、そして看護師さんに頼んでみたら、コットに寝かされた我が子を病室に連れてきてくれた。
回復の始まりは初めての出産体験の終わりだと感じた。
長く険しく、何度も泣いた不妊治療。
不安におそわれ、つわりの吐き気に苦しんだ妊娠期間。
そのぜんぶが報われるような寝顔を、コットの中に見た。

その後の母体の回復は順調であり、予定通りにふたりで退院することができた。いま娘の頬はぷくぷくで、顎は二重顎である。
すぐにナースステーションに助けを求めることができた入院期間を経て、母が滞在して家事全般と育児の半分ほどを担ってくれていた期間を経て、これからは夫婦ふたりでこのほわほわした生命を守り育てることになった。
これまでもこれからも、試練の連続。
でもこれが、家族としての大切な一歩。
そんな風に受け止めて、これから夫と娘と生きてゆく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?