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世界の名匠シリーズ ジャン:フランソワ・ミレー

こんにちわ。

いつもご覧いただきありがとうございます。

今日はミレーについて綴っていこうと思います。

皆さん、ミレーてご存じですか?トップ画像にも載せましたが、『落穂拾い』この絵は皆さん見たころあるのではないでしょうか?ミレーの中でもっとも有名な絵といっても過言ではないと思います。このほかに『晩鐘』や『種をまく人』などの有名な絵もあります。

そんなミレーの生涯を今日はお届けいたします。

ではやっていきましょーーー


ジャン:フランソワ・ミレー フランス ブリュシー出身。1814年農家の息子として産まれます。ミレーの父も好んで絵を描き、それに触発され小さいころから絵を描き始めます。

18歳の頃、ミレーが素描した絵画に両親が感動し、画塾に通うように勧めます。そして本格的に画家の道を志します。

師匠ラングロワの協力と奨学金が認められた為、1837年からエコール・デ・ボザールで本格的に学ぶこととなります。

しかしそこでの講師とうまくそりが合わず、合わせて1839年に展覧会に出展してもいい評価をもらえず、美術学校を去ることとなります。

翌1840年サロンに入選すると徐々にミレーが評価されるようになります。

その後私生活では妻が出来ますが、早くに結核で死別し意気消沈しながら地元へ帰り新しい妻を貰います。たくさんの子宝にも恵まれ、サロンも入選が続き、画家として地位も確立しつつありました。


1950年『種まく人』を描きます。ミレーがもう農民画家と言われる発端となった絵で、これが物議を醸しだします。


時は19世紀中期フランス革命後のフランスです。政府主催のサロンが行われ、そこでの入選落選が画家にとって人生を決めるといっても過言ではありませんでした。

以前書いたモネやゴッホの記事にもありましたね!

ミレーがサロンに出展していたころは

ドミニク・アングルを筆頭に、誰が見ても美しく、官能的な芸術的な【新古典主義】と

ウジェーヌ・ドラクロワを筆頭に個人の感性や想像力の優越を主張する【ロマン主義】の二つ勢力が拮抗していました。


そんな【新古典主義】も【ロマン主義】も理想じゃん!!!今の市民たちはその日の食べ物もろくにありつけない貧しい人達なんだぞ!という思いが、ミレーが農民を映し出していく原動力となっていきます。

そしてトップ画にある『落ち穂拾い』

この落ち穂拾いですが、収穫後に落ちた取り残しの麦の穂の事です。旧約聖書でこの落ち穂を畑の持ち主が回収することを戒められました。

そしてそれを拾うことが出来るのは、生計を立てることが難しい、特に貧しい人々だけだったのです。

画像をよく見て頂ければ分かるのですが、落ち穂を拾う三人の貧しいたちの右奥に馬にまたがりこちらを見ている畑の持ち主と思われる人、そして稲を刈る普通の人々と三つの階級が描写されています。7


ミレーは胸や尻を書かせたら一番と言われるくらいロココ風な作画をしていましたが、それは金の為であり、彼が本当に描きたかったのは

貧しくても一生懸命生きている人々だったのではないでしょうか?そして農家で生まれ育ち両親の働く姿を見てきたミレーだからこそ、沢山の人に伝えたかったのではないでしょうか?


1874年にこの世を去りますが、同年モネとルノワールが第1回印象派展を開いた年でもありました。

新古典主義とロマン主義の2大巨頭の中に、若手が市民と風景を描くというテーマで印象派を立ち上げた原動力となったのは、間違いなくミレーの功績ではないでしょうか?

そして後にゴッホはミレーの農民画の模写も複数するほど、印象派に多大なる影響を与えた画家だったと言えます。


さていかがだったでしょうか?

ミレーの生涯。結構端折りましたが、自らの信念貫き、後世に多大なる影響与えた画家であり、僕の好きな『落ち穂拾い』を描いた画家です。皆さんに少しでも伝えられたのであれば嬉しい限りです。


今日はこのへんで!またねーーー


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