見出し画像

切手を集める男の話

その男はいつも同じ席に座っていた。
4席しかないカウンターの一番奥。ほかの席よりも手狭だが、彼はむしろそれを好んでいるようだった。

 来店する頻度は月に一、二回でそれほど目立った風貌でもない。まずコーヒーを頼み、席につく。
 彼の異様なのはそこからである。カバンから慎重に一つの冊子を引き出し、そこに挟まれた半透明の小さな袋を、今にも壊れそうな硝子をつまむように持ち上げる。そしてしばらくその小袋の中身をじっと見つめ、動かない。その一切の動作は何か神聖な空気すら感じさせた。そこだけがピンと張りつめ、呼吸も許さないような真剣さがあった。
それから、ふっと表情がほどける。するとあの神聖さもどこかへ消え、元のありふれた一人の男になる。今度は至極穏やかな様子で綿毛を摘むように小袋の中身を取り出す。それは、切手であった。開いた冊子にその切手を寝かせてやるとまた優しく閉じる。きちんとカバンにしまってから、いつのまにか運ばれていたコーヒーに手を伸ばす。

 思い返せば、別段変わっているという訳でもないかもしれない。しかし、あの空気は異様と感じざるをえなかった。毎度コーヒーを飲み終わればすっと席を立ち、いつのまにか会計を済ませ、カランコロンと戸が鳴る頃には姿が見えない。

 そんな具合で彼がこの喫茶に顔を出し始めて幾度目かの冬が終わる頃である。雪は溶け始めたものの風はキリリと冷たく、戸の開閉に合わせてあたたかな店内にも冬は入り込んでいた。この頃は店を開けても閑散とした日が多かった。店主は物置部屋を片付けたり、大きな段ボールを捨てに行ったりしていた。

 その日も客が少なく、店主はいつもより念入りにカップを拭いていた。昼を過ぎたころ、あの男がきて「コーヒーを一杯」とほとんどつぶやくような声で言う。店主も「はい」とだけいい、彼はいつもの席に座った。そしてあの儀式が始まる。

 その頃になると、冊子の中身が見える位置にある私は、彼が切手、それも古いヨーロッパのものを集める趣味人なのは承知していた。色や柄は様々であるが、どれも「10」と書いてあった。その日も「10」と印字された切手を手に入れてきたようだった。

「あ」

 彼が儀式の途中で、声を出したのは初めてであった。見慣れつつあった私も驚き、滅多に客に声をかけない店主が「どうかされましたか」と思わず口走った。店主も気にしない風を装いながら、彼の神聖な動作に神経を澄ませていたのだった。彼は店主と目を合わせてやっと、自分が声を出していたことに気が付いたようで、言葉を詰まらせた。しかしその目は興奮して爛々と開かれていた。
「いたんです、友人が」
 彼はそれだけ言うとまた自分の世界に戻っていった。店主は質問を重ねたくなったが、口を閉じた。男の言っていることはよく分からなかったが、彼の喜びを祝福するには、いつものようにそっとコーヒーを置くことだけだと思えた。

 このとき、「あ」と思ったのは彼だけではなかった。店主のほうから切手は見えないから気づいたのは私だけであった。その切手は、先日店主が捨ててしまった大きな段ボールに貼られてあったものだった。そしてその段ボールは私をここまで運んだものであった。

私はこっそり切手に話しかけた。
「あなた、そんなところでなにしているの」
切手は彼からの熱い視線を優しく受け止めながら、こっそりと答えてくれた。
「君こそ、ずいぶん馴染んでいるようだね」
「私のことはいいのよ。」

私が生まれたのは、ここより土地も時間も遠いところだった。いくつもの部屋や店を渡った。豪奢ではないが腕のいい職人に作られたこのシャンデリアは、数百の冬を超えて今はこの喫茶店の天井から人の往来をみるともなしにみている。そんな私をここまで運んだのは長い間一つの段ボールだった。修復を繰り返されながらも、同じ大きさの段ボールがあまりないのだろう。私が人の手をわたるたび、消印の押された切手が重ねられていった。今、男の手におさまっている切手は、そんな切手の中でも特に古い付き合いの切手だった。たしか「10」の切手はこの一つだけだった。半端に足りなくて付け足された切手だ。

「古紙置き場から拾われたの?」
切手はそうさ、といって
「消印を押されても、君を送り届けてもなかなか眠れなかったんだ」
声がどんどん、
「しかし合点がいったよ。君を届けてすぐに剝がれちまった片割れに見つけてもらわなきゃいけなかったんだな」
か細くなってゆく。
「おやすみ、友よ」
そういうと、もう切手は何も答えなくなった。男は、新しいページを開いてその真ん中に切手を寝かせた。その動作が今までの何倍も何倍も愛おしそうに見えた。

 その日以来、男は店に来ていない。