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爽やかな無力感

こんばんは。
眠るまでのシリーズも、4本目になりました。
小さなラジオを書いている気分です。音声で残すのもいいのだけど、推敲が好きだから、これからもこの調子で綴ります。

3/21から昨日4/2まで、実家のある島へ帰省しておりました。今回はその徒然を書きます。

2週間弱の帰省のはじめ、扁桃腺炎で体調を崩しました。そこからこの期間にやろうと思っていた勉強や就活、最後の絵の仕事など、予定していたことがガタガタと崩れました。

一度予定が崩れるとメンタルも崩れて、負の連鎖は続きます。
真昼間、家人のいない間はずっと布団で咽び泣くか呆けるか唸り歪めるばかり。
外に出れば、最寄りのバス停からほんの160円で大橋に行けることを考える。自殺スポットとして有名な大きな橋。

しかしひとたび人前に出れば、まるで元気に振る舞えます。予定があれば、ゾンビのように起き出して、集合する頃にはニッコリ笑っております。

役者経験があるからというよりは、親の顔色を伺って過ごした子供時代の賜物のような気がします。声色、仕草、表情、目線、そのどれもがに不穏な様子を見せないよう、いつもの私が表れるよう、意識することができるのです。

人目があれば平気になれても、もちろんその分疲れ果て、毎日隙あらば泥のように寝ておりました。洗濯や皿洗いくらいの最低限の家事手伝いだけしてあとは寝太郎でした。

やりたかった勉強も、絵の仕事も、殆ど手付かずのまま。それがまた、自責の念、抑鬱、希死念慮への材料になります。

『お前の考えを突き詰めると死ぬしかないな。子どもを産み育てることは全くの不利益で、非効率的だな。どうするか、あの橋からでも飛ぶか。』

実の親たる父に、面と向かってこう言われると、もはや生きていることの方が不自然に思えてきました。思えてきたというより、思ってるんです。私が。

普段物静かな父の苛立ったその声色からは、堂々巡りのネガティブなことしか言わない私に対する疲れが見えました。どんな話題でも、父はすぐに『それなら死ぬしかないな』をいうようになりました。

父と対等に話せるようになってまだ1年も経ちませんから、嬉しかったのです。話すということ、それだけが。生産性も何も無い話を、父とするのが嬉しかった。それに浮かれて疲れさせて、ごめんよ。

「あぁ、父さんはそう思うんだね」

いつからか私はそうやって話を切って、さっさと皿洗いに立つようになりました。これ以上疲れさせない為に、これ以上自分が困らない為に、関係を悪くさせない為に、賢くて最善の判断でしょう。賢くて、善くて、それは少しだけ寂しかったけれど。

帰省生活後半は、3日ほど毎日出かけました。毎日違う友人と会い、心地よい疲れと程よい家族との会話量で、穏やかでした。

帰省最後の夜、翌日早朝の仕事に出る母とは、会うのが最後でした。家族で少し晩酌をし,ひと笑い、ふた笑いしました。(16歳の妹はぶどうジュースを家でいちばん上等なグラスに注いでいました)

珍しく酔っ払った母は、笑い上戸になって
『もう明日仕事なのよ〜』と涙が出るほど笑ってました。いよいよ布団にゆくぞというとき、グラスを下げにきた私の頭を、おもむろに母は撫でました。その笑顔はアルコールによって、福を呼びそうなほどほころんでいました。
母にこんなに愛おしそうに撫でられた記憶が、はて、あったかしら。

固まってしまった私に構わず、
『あ〜!お布団しいてる!嬉し〜!』
と母は私の横を通り縋っていきました。
酔っ払いの火照ったぶ厚いあの手が、くしゃくしゃに緩んだあの顔が、まるで娘のことが可愛くて仕方ないみたいに私に向いたあの一瞬が、どうも脳裏に焼き付いて、しばらく忘れない気がします。

その日の夜は、何故か妹が同じ布団で寝てくれました。いつも『人と寝るの無理』と冷たくあしらわれるのがオチなのに、わざわざ私の布団の横に自分の布団を持ち込んでました。眠り際は、妹の弾丸オタクトークを子守唄に寝てしまったので申し訳なかったですが、朝起きると目の前に妹の背がありました。その背の丸みに沿う、黒く長い髪。

私が精神不安定になって親が駆けつけてくれるとき、どうしても日帰りのため帰りが遅くなります。いつもこの家で留守番する妹。
『推しのライブ映像何回でも見れるからめちゃくちゃ良い』
と言ってくれますが、
『どうせ帰り遅いんでしょ』
と、母にボソッと言ったことがあるそうです。

ごめんね。不甲斐ない姉で。
その寂しさはこの兄妹であなたしかしてない。
ごめんね。
あなたが私を求めてくれるうちに応えられるだけ応えたいと思う。シスコンであることに違いないが、同時に罪滅ぼしの意識が無いとは言えない。

そんなふうな帰省生活でした。
翌朝はしっかり晴れて花粉が絶好調でした。
次の日に控えたテストへの勉強は一切してませんでした。
でも、ここ最近で最も希死念慮が薄れた日でした。

生きるって、なんでしょうね。

父の言葉通りのことを、
私は根本的に思ってますけど。

生まれるか生まれないかを選べるなら、生まれないことを選びたい。

でももう出てきちゃったから、この世に。
だったら、地球から見れば瞬きにも満たない人生を、私の悲しくない程度に疲れない程度に、ほどよく力を抜いて、愛したいものだけ守って生きたらいいかもしれない。

試験の結果は散々かもしれない。
実習行けないかもしれない。
就職できないかもしれない。
卒業できないかもしれない。
国試落ちるかもしれない。

でもいいのよ、
他者評価がそうだったってだけよ。
この世が私に向いてないんじゃない、
この業界が私に向いてないってだけよ。

やれるだけやって、無理ならいいじゃない。
咲けない場所におかれたら、眠ればいいのよ。私たち、種子と違って手足があるから、たっぷり眠って元気が出たら、咲ける場所見つけに行けばいいのよ。

私は自分が思ってたよりずっと心が揺らぎやすくて脳は過活動になりやすくて、それらを受け止める体力もない。自然界になぞらえたら、とっくに淘汰されてるだろう。ところが人間界(特に日本社会)は弱いものを見捨てることを良しとしないから、生き残れてしまっている。

その自覚がくっきりとして、爽やかな無力感が私をほどいていった。

希望的な終わり方になりました。
ちなみに『爽やかな無力感』というのは友達の言葉を勝手に借りました。えへ。気に入ってます。その人のことも。

ではまた、眠れぬ夜に。