箸の持ち方

こんにちは。ひまわりです。

ゆくゆくは自分自身の性被害や虐待、いじめのこと、セカンドレイプのことを書いていきたいと思うのですが、まだその勇気が出ないので、少しずつ、ここに書き綴ろうと思います。

突然ですが、私は今、箸を正しく持つことができません。鉛筆持ち、までは正しいのですが、所謂クロス箸です。

それに初めて気づいたのは、高校生のときでした。高校生のとき、私は茶道部だったのですが、茶道部ではお茶をいただく前にお菓子をいただきます。それが器に入っていて、自分で箸で懐紙とよばれる紙にうつすのですが、そのときに、先生に指摘されました。

畳の歩き方、姿勢、お辞儀の仕方、手の揃え方等色々教わるのですが、箸の持ち方は、みんな当たり前にできていたので、先生から教わることはありませんでした。何回目かのお稽古で、先生がたまたま気づいて、指摘していただきました。

「その箸の持ち方違うよ」
そういわれました。

私の頭の中ははてなでいっぱいでした。「え??これであってるんじゃないの?」と。

先生は、「箸の持ち方はこうよ」と、教えてくれました。私に見せて、「鉛筆持ちで…」という風に教えてくれました。でも、当時私は自分の箸の使い方と、先生の箸の使い方の違いが分からず、「クロス箸」という用語も知りませんでした。

とても混乱して、茶道部の部屋のシンとしたなか、先生の声だけが響き、とても恥ずかしかったです。横を見れば同級生がなんなくそれをこなしていました。

私は、「こうですか」と小さい声で呟きます。でも、違うのです。「そうじゃない、こうだよ」

私は、「わからない。わからない。鉛筆持ちはあってるのに、どうやればいいのだろう」そう思ってました。

それで何度か試していくうちに、たまたま、正解の持ち方ができ先生に、「そう。そう持つのよ」そう言われました。

でも、そのたまたまあたった「正解」とほかの持ち方の違いが分からず、とりあえずその場は乗り切ったものの、ほかの子が当たり前の顔でこなしている姿を見て、注意されるのが恥ずかしくて、先生が見ていないタイミングを狙って、「こうかな…?」と疑問に思いながら、毎回お箸を使っていました。

茶道部では、お点前の仕方、畳の歩き方など、教えられればちゃんとできました。でも「箸の持ち方」だけは、他の人にとっては「当たり前」すぎて、聞けずにいました。

でも、指摘された日に、母に聞いたのです。「わたし、箸の持ち方、違うみたい」と。そしたら母は、「そうだよ。あんたの持ち方ずっと違ったわよ。でもあんた、何度言っても直らないし、今更気づいたの?」

そう言われました。
その時は、「そうか、母はちゃんと教えてくれたけど、私はちゃんとできなかったんだ」そう思いました。

でも今幼少期を振り返ると、私はちゃんと教わった覚えがないのです。

母は、私たち双子に「箸は鉛筆持ちよ」そうやって教えました。
でも、双子の弟には、母は隣で弟の手を取り教えたり、後ろから手を添えて教えたりしていました。私はその様子を横から見て、見よう見まねで覚えました。

母は私の箸の持ち方について何も言いませんでした。たしかに一見正しいように見えるのですが、何かをつまむとき、違うことに気づかれてしまうような持ち方です。

茶道の場面以外では、箸の持ち方が違うことで、苦労することも、あまりないから、私もそのあとそのままにしていました。

でも大学生になって、友達に「箸の持ち方違うよ。意外と育ち悪い?」と言われました。海外の友達に会うことがあって、「箸はどう持つの?」そう聞かれたら、私は答えられませんでした。海外の他の子に、「ごめんね。私も箸の持ち方正しくないの」そう言うと、「私もだよ」と笑われることもありました。ほかのネットのご意見でも、「日本人として」とか「食べ方のマナーがなってない人とは付き合いたくない」とかそういう言葉を見かけてしまうこともありました。

ある人に相談すると、「自分もちゃんと持ててるかわからない。でも間違っててもよくない?」そう言われました。

私も、そう割り切れればいい。箸の持ち方だけで、「この人とは付き合いたくない」「育ちが悪い」と言えてしまう人とは、付き合わなければいい。そう思えればどんなに私にとって楽だろう。でも私はそこまで割り切れないのです。

そして、彼らは知らないのです。「虐待」「ネグレクト」という世界を。「当たり前」を「教えてもらえない」人がいるという事実を。

そして彼らに問いたい。「育ちが悪いのは、その人のせいですか?」と。

分かっている。彼らも「知らない」「分からない」ことによってそういう言葉が出てしまうことも。私がこう育ったのと同じように、彼らは異なる価値観の家庭や世界で生きてきて、彼らも彼らで、生まれる場所は選べなかったこと。

でも、「知らない」ことによる言葉の刃は私の胸に突き刺さり、自分自身が「マイノリティ」であり「虐待を受けていた」という事実を痛感させる。そして、そういう人にいちいち「私は虐待を受けていて、箸の持ち方を教えてもらえなかったんです」なんて言って回ったとして、変な同情の言葉や、教えてもらえなかったなら自分で調べて学べばすむ話ではないかという「自己責任論」や「努力論」を語られるのはもっと傷つく。

住む世界が違う。それが突き付けられ、私は言葉を失う。悪意のない言葉は時として明らかに悪意の持った発言よりも傷つくときがある。

他にもたくさんある。見よう見まねで覚えたこと。外に出るときには髪を整えること、食後は歯磨きをすること、髪や体の洗い方、コンディショナーの使い方、などだ。ドライヤーをかけることは、大学生になってから友達に指摘されてちゃんとかけるようになった。

「できて当たり前」ができない人はたくさんいる。「できない」理由も人の数だけ存在する。その理由の一つとして、「虐待」がある。そういう日常に散らばっている小さないろいろな「教わらなかったこと」数え出したらいくつあるのだろう。そして、それを「普通に」小さいころから教わった人たちとの土台の違いは、どのくらいあるのだろう?それらをすべて「個々の努力不足」などと一括りにしてよいのだろうか?

私は周りを変える力はないし、すべての人の「理由」をちゃんと理解する能力は備わっていない。私は私で今は精一杯なところもある。

でも、できるだけ、「当たり前」が「当たり前でない人がいる」ということを想像しようとする、知ろうとすることができる人に、そして「当たり前」を押し付けられることの痛みをよく知っているものとして、いつか私も誰かの痛みに寄り添うことができればと願う。

追記
私は今、箸の持ち方を練習しています。急いでいたり、硬いものを切るとき、気が付くとクロス箸になってしまいます。確かに、間違っててもいい、と割り切れれば、楽なのだけど、どうしても気になってしまうのです。食事をするとき「あの人違うな」とか思われてしまうことが怖いのです。
気にしすぎ、なのですが、気になってしまうものは気になってしまう。だから、私は、「育ちが悪い」とか「そういう人とは付き合いたくない」という人のために箸の持ち方を変えるのではなく、あくまで「母にちゃんと教わりたかった」「箸の持ち方がちがうことによって虐待を受けていたことを突き付けられることの私自身の痛み」「異なる箸の持ち方をすることで感じる自分の劣等感を減らす」ために、自分のために、練習しています。
自己満足ですが、そうすることで、過去の自分が少しでも癒されることを願っています。

長い文章を、ここまで読んでいただきありがとうございました。途中、文末が違うことによって読みにくくなってすいません。自分の思いが一番伝わる方法で書いてみたら、こうなってしまいました。

それでは、また。





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