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貢献とは
前日、このポストがおすすめに出た。
大学院は勉強する場所というよりも、研究する場所だという主張。
また、博士号は「人類への貢献」という結果を出すことでもらえるという。
これ、知らない人もいるのか!ええと、そうなんです。大学院、特に博士課程は「人類への貢献」で博士が貰えます。つまり「お勉強」や「知識の授与」は博士課程では行われません。足りない知識は自ら学び、それは評価の対象外です。あくまでも人類の進歩に貢献したかどうかの結果のみを問われます。 https://t.co/XdHm5UPkro
— 手塚一佳 DFA/博士(芸術) MENSAN (@tezukakaz) June 10, 2024
そして、続きがある。
学者が貢献について言及する時は、多くの人が考える「社会への貢献」(近い未来への応用)ではなく、「人類への貢献」(もっと遠い未来における可能性)を指していることが指摘されている。
これ、役人や学部卒の考える「社会への貢献」と学者の口にする「人類への貢献」には大きな断絶があるのだ。前者は今の主に経済的な成果を指し、後者は遠い未来(場合によっては過去)での予測され得る成果も含むので。 https://t.co/GuHXWTDJ5Q
— 手塚一佳 DFA/博士(芸術) MENSAN (@tezukakaz) June 10, 2024
知識は広がっていく円
このポストを見て、博士論文の成果について話していたあるポスト(?)を思い出した。(元のポストが見つからないので、見つかったら記事に埋め込む予定)
そのポストでは、研究ですでに明らかにされたこと全般は円に例えられていた。
博士研究では、無限に拡大した円の一部のみに着目している。
少しでも未知のことを解明しようとして、円の外に突き出すような尖りを作ることが研究だというふうに表現された。
わずかな出っ張りは、円全体を見るときに全く見えないほど小さいかもしれないが、そんな小さな出っ張りが無数にでき、つながることによって、円が少しずつ外に広がっていく。
我々人類は昔から一見地味そうな努力を重ね、より多くのことを知るようになった。そして、それらの知識を土台により豊かな社会を作ってきた。
実際にアカデミック研究とはこういうものかもしれない。
今すぐ実用化できるものもあれば、実用化するまで長い年月がかかるものもあり、更に言うと実用化のための方向性すら決まっていないものもある。
それでも、そういった成果は決して無駄ではないはずだ。
研究者の多くは、近い将来で実用できる技術よりも、もっと遠くの未来にある可能性に目を向けているのかもしれない。
「社会への貢献」ではなく、「人類への貢献」のための研究。
なんだか響きがとてもかっこいい。
大学院は勉強する場所か?
ちなみに、大学院を出た(修士課程だけど)私の感想として、大学院は勉強するところである。むしろ勉強しかしない。
ただし大学での勉強方法と少し違っていて、大学では講義を受けてレポートを書く勉強がメインだが、大学院ではもっと能動的な勉強が求められる。
先輩や先生の研究の進め方を見て自分の研究方法を改善し、正解がまだ出されていないものに対してどのようにアプローチすれば解明に近づけるのかを模索する勉強をする。
普通に学ぶことが多すぎて、学びきれないほどである。
博士課程に関してはもっと積極的に研究計画や方向性を決め、実験手法を改良する必要があるので、より厳しい「研究をする勉強」が待っているのであろう。
勉強という言葉に対する解釈の違いで見方が結構違ってきそう。
ちなみに以下のポストに対して私は激しく同意する。
研究をすることは、人類に貢献することである。
研究者として捉えるのなら、出した成果に対してしっかりと給料を払わないと()
大学院とは高度な専門知識を教科書ではなく経験と学会と論文から「勉強」し,それに基づく自らの仮説をいかにして検証するのかの技術とマインドセットを「勉強」し,学位取得後に研究者として独り立ちするためのベースを取得する教育機関であると心得ています。研究者と捉えるなら給料払わんと。 https://t.co/dknYxje16e
— 🌻Ryohei Thomas Nakano (Hokudai)🌻 (@LuckyStrike1984) June 11, 2024
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