楚漢戦争、劉邦について

【劉邦】
 劉邦は、漢の初代皇帝です。通常は「高祖」などと呼ばれ、廟号を「太祖」と言います。廟号とは、死んだ後に付けられる名前のことです。劉邦は、普通の農民出身で、まともに読み書きも出来ませんでした。名前の「邦」は、お兄ちゃんを表す言葉だとされています。劉邦は、面長で、鼻が高く、立派な髭をしていました。それを竜顔と言います。劉邦の母親が、妊娠中、龍の夢を見たので、劉邦は、赤龍の子だとされました。赤龍の赤は、漢王朝の色だとされています。
 劉邦は、実家の農業を手伝わず、侠客のような生活をしていました。親分肌で、器が広かったので、人望はあったとされています。そのため、なんとなく人が集まってきました。劉邦は、酒と女を好んだとされています。酒屋には、金を持ずに行きました。しかし、劉邦の周りに人が集まるので、売り上げには貢献したとされています。劉邦は、中年期まで、ろくな官職がなかったのに、大望はあったとされています。始皇帝が巡行してきた時に、あのようになりたいと言ったからです。劉邦には、人の話を聞くという取り柄しかなかったのに。自然と「韓信」「張良」「陳平」など、超優秀な人材が集まってきました。特に張良の言葉は、無条件で聞き入れたとされています。

【鴻門の会】
 劉邦は、もともと項羽の元で、反秦活動をしていました。その項羽の主君だったのが楚王の「懐王」です。懐王は、最初に関中に入った者を、その地の王にすると言いました。関中とは、秦の首都「咸陽」を中心とした一帯のことです。その関中に一番乗りをしたのが、劉邦でした。当時、秦の皇帝だったのが「子嬰」です。子嬰は、劉邦に降伏して、玉璽を差し出しました。劉邦は、宮殿の女と財産に目がくらんだとされています。ただし、関中では、掠奪行為を行いませんでした。そのため、民衆には、人気があったとされています。しかし、秦の主力と、戦っていたのは項羽の方でした。項羽は、劉邦の関中入りに怒ったとされています。
 劉邦は、項羽の叔父の「項伯」を通じて、謝罪することにしました。項伯に頼んだのは、劉邦の軍師「張良」と義兄弟だったからです。項羽の軍師「范増」は、剣舞の席で、劉邦を殺そうとしましたが、周りの助けで、逃げることが出来ました。この出来事を「鴻門の会」と言います。その後、劉邦は、西「左」にある、巴蜀の地へ遷されることになりました。それが「左遷」の語源とされています。巴蜀は、道が険しい辺境の地でした。この頃に、加わったのが、後に大将軍になる韓信です。韓信は、劉邦に、項羽と逆のことをすれば、諸侯はついてくると言いました。

つづく

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