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顕彰と、慰霊・鎮魂の狭間

とある方の、靖国神社を巡る著作に触れる機会がありました。率直に言うと、少なからず抵抗を覚えずにはいられませんでした。

その源はおそらく、そこに祀られている方々が、「国のために命を捧げる」ことを、さも自らの意志によって、能動的に決意したものとして論じられていたところにあったのでしょう。つまり、著者はその方々を、「顕彰」すべき対象と考えているのです。

もちろん、そうした方々がいらしたことを否定する積もりはありません。ですが圧倒的に多くの方々は、大きな時代の波に押し出されるまま、「国のために命を捧げさせられた」、そんな使役受動型だったのではないかと思われるのです。

これらの方々に必要なのは、「慰霊」であり「鎮魂」です。

この神社の始まりは、東京招魂社に求められます。ところで、その創設に大きく関わった大村益次郎には、祀り手、つまりは子孫のいない死者たちは、国が代って祀ってやるべきだろう、という思いであったと記憶しています。少なくとも、かつてそうした記述を目にした覚えがあります(残念ながら、書名までは覚えていないのですが)。

そうであれば、当初思い描かれていたのは、「慰霊」であり「鎮魂」だったはずです。

ですが、「慰霊」と「鎮魂」には、どうしても「顕彰」を呼び寄せやすいのでしょう。そしてまた、時の権力者たちにより好まれるのが後者であることは言うまでもありません。何故なら「慰霊」と「鎮魂」は、祀り手に反省と悔悟を呼び起こしますが、「顕彰」には、さらなる生贄を欲する獰猛さがついて回るからです。

「靖国で会おう」―この言の葉の裏側に、どんな想いを読み取るのか。その僅かな違いによって、この施設は、私たちをとんでもないところへ引きずり込んで見せる魔力を秘めたまま、今も在り続けているのです。