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卑弥呼と聞得大君

「魏志倭人伝」による邪馬台国の記述によれば、卑弥呼は「鬼道に事え衆を惑わした」とあります。
邪馬台国については、それがどこに位置していたのかという、いわゆる「邪馬台国論争」が興味の的となっていますが、筆者の個人的な関心は、それよりも卑弥呼が「事え」と言われる「鬼道」が、一体何を意味していたのか、にあります。

中国において、「鬼」とは死者のことを意味します。これをそのまま素直に受け取れば、死者の霊を慰め、あるいはその霊威を自らの力とした、といったことが想像されます。

ただ当時の中国では、儒教以外の宗教や、呪術などを一括りにして「鬼道」と呼んだ風もあったようです。そうしてみると、何やら得体のしれない宗教的な、あるいは呪術的な振る舞い、というようなことになるのでしょうか。

一つのヒントになるのかも知れないのは、卑弥呼がそうした「鬼道」に事える一方で、その弟が国政を補佐していたという記述です。ここからは、琉球王国における王と聞得大君(きこえおおぎみ)の関係が、オーバーラップして浮かんでくるようです。

祭政一致であった琉球王国は、政治を王が、祭祀については聞得大君が受け持ちました。また聞得大君は、おなり神として、国王と王国を守護したとされています。祭祀場所とされる御嶽では、琉球神話の神や祖先神が祀られたとも言われます。

琉球王国の成立自体が15世紀のことですので、一括りにするのは無謀でしょうが、このように、卑弥呼と聞得大君が二重写しのように浮かび上がってくるように思えます。結局「鬼道」の正体はぼんやりとしたままなのですが…。