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日常に名前をつけるのであれば。

随分と久しぶりの投稿になります。
試験やなんだと言い訳をつけてサボってきたわけですが、誰にも気づかれないこの場所だから今度こそ大事にしていけたらと思います。

散文で読みにくいとは思いますがお付き合いください。今日はいつも読んでくださる皆さんへのお手紙くらいだと思って書きます。恥ずかしくなれば消します。

さて、昨今SNS疲れなどという言葉が叫ばれ始め久しい頃ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。私はというと、随分疲れております。

暑い夏が終われば慌ただしい秋が来て、気付けば何もかも終わりそうな冬です。
そして、日々の中にSNSを日課として取りこんでしまうと途端に毎日が重たくなってきてずっしりと肩にのしかかってくるところです。
実際私の肩には(正確にはきっと踵の裏には)僕だけに見える随分と大きい妖怪が乗っかっていたようです。

ここ最近までの僕は写真を撮ってもHDDの中に溜まっていく毎日で、これがなんと淋しく重いことだろうと苦労しています。

とはいえ、家族や友人には一緒に行った旅行、美味しかったご飯、素晴らしい結婚式、思わず撮った空の写真を送っている毎日でもあります。こんな写真はおそらくTwitterの大海原に流して仕舞えばとても退屈で寂しくてかわいそうな写真かもしれませんが、僕が直接言葉を投げかけられる相手であればそうではない気もして渡すようにしてるのです。

SNSで知り合えたたくさんの尊敬する先人や友人と一緒にいるには随分僕は背伸びをしなければならない人間のようです。
だから日常の高まりを、非日常の切り取りを、感動の最高潮だけを切り取って言葉をつけて語るしかないのだと。

ふと思ってしまった時に、脱力してしまったわけです。いつも母親に送る写真と、SNSにそっと置いておく写真と何が違うのだろうかと思うことが多くなりました。

きっと僕はずっと背伸びをしていて、たぶん自分の高さ以上の景色を見ようとして無理をしてたようにも思います。
背伸びをしてみると、いつも見えていた壁を超えた瞬間に果てしなく広く美しい世界が広がっていることもわかっていた。だから付随する言葉で、現実から離れた色で、少しだけ自分の踵を持ち上げるように生きていたのかもしれません。

でもうまく安定して見続けることはできないから、僕は一旦背伸びをやめてしまった。そうしたら次背伸びする気が起きなかったんだと思います。

そうして見て初めて、自分の撮った写真が自分の感動のレベルと直結することに気づいたわけです。

日常に直接的な感動を与える力はなくて、重なることで伝わる愛着が感動の代わりになるはずで。そうするときっとSNS映えはしないけど、少なくとも僕が背伸びする必要はなくなるんだと思う。
非日常は時折僕を背伸びさせてくれるけど、それはあくまで僕の見える世界をちょっと押し広げて見ただけでそこから成長しないと非日常は決して日常には落ちてきてくれないんだと。

だからこそ、日常的な一瞬や一時や一秒の写真はきっと愛着を育てるもので、僕が27年という短い人生で獲得した糧だとも思っています。
非日常が「感動」的なシーンで共感を生むのであれば、きっと日常は「愛着」を育むものなんだろうと信じていたい。
他の人がどうあれ、僕にはその程度しか見つめるものがなさそうだから。

今度こそ僕は日常の中に写真を取り込めたらいいな、とそう思って前を向き始めた師走の頃でした。

駄文失礼しました。皆様、良いお年を。

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