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10/1 ぬいぐるみについて

22歳になった去年の今日、ぼくはぬいぐるみを貰った。約30㎝ほどの、アライグマのぬいぐるみだ。それを凄く気に入ったぼくは、貰った翌日に澁谷のドン・キホーテに行って小型犬用のハーネスを購入し、アライグマに装着してしじゅう連れ歩くようになった。それからぼくは、Amazonでフェネックギツネの、百均でコアラの、ぬいぐるみメーカー「たけのこ TAKENOKO」でまたアライグマの、そして先日はSHEINでもアライグマのぬいぐるみを買った。加えて「たけのこ TAKENOKO」のアライグマと、そしてヴィレヴァンでNICIのアライグマを買ってそれぞれ別のカバンにぶら下げてある。その結果、常になんらかのぬいぐるみを連れ歩くようになった。

22歳になってぬいぐるみに凝り始める。2歳ではなく、22歳。妙にも見えるし、実際妙なのだとは思う。ただ、ぼくはぬいぐるみを子供と同じように扱っているわけではない、と思う。たとえば、ぼくにとってぬいぐるみは「友達」ではない。話しかけたりもしない。名前をつけているわけでもない。誕生日プレゼントとしてもらったアライグマのことは「アライさん」と呼んでいるが、これは特例だ。ぬいぐるみは友達ではなく、物だからだ。こう言うと冷たいというか、あまりぬいぐるみが好きなひとっぽくはない。では、ぼくにとってぬいぐるみとは何なのかといえば、ファッションだ。

ファッション、というのもこれまた冷たいというか「ぬいぐるみ好き」らしくない発言のように見える。「ぼくがぬいぐるみが好きなのは、ファッションです」というと、いかにも本当は好きではないかのような印象を受ける(これはこれで「ファッション」というものへの偏見ではないかと思う。表面的、みたいな。)。でも、そうではない。ぼくはちゃんとぬいぐるみが好きだ。ファッションとして。それはいったい、どういうことなのか。

「好きな服を着るために、外へ出かけたい」ということがある(らしい)。特に取り立ててようがあるわけではないが、新しく買った服を着て外に出たいから、出る。外出は何かを達成する手段ではなく、目的そのものということだ。ぼく自身が実際にそういった感性を持っているわけではないが、近いものはわかる。それこそが、ぼくにとってのぬいぐるみだ。つまり、ぼくにとってぬいぐるみというのは外に出たり、何かしたりすることの目的になってくれるようなものなのだ。ベッドから動けない(のに動かなければいけない)とき、ぬいぐるみを持っていくことを決めるとなんとなく家を出ようかなという気が起きる。実際、持ち歩いていると良い気分になる。ぼくにとってのぬいぐるみは、そういう「バフ」のようなものだといっても良い。

もちろん、それだけではない。単純に見た目がかわいいとか、あとぼくにとってこれまた重要なポイントとして「何かをしながら手元でいじるのに丁度良い」といった理由もある。でも、やっぱり大きいのは「ぬいぐるみを携えることで、行動の起点となってくれる」ということなのだろうと思う。23歳の誕生日であった本日も、ぬいぐるみをカバンに入れて出かけた。行先はお台場。……実は、書き始めたときにはお台場についても色々書こうと思っていたのだが疲れた。今日はこれくらいにしようと思う。




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