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8/15 アイドルをパロディする

ももちこと嗣永桃子の話だ。ももちはBerryz工房の中で最も有名なメンバーだと思うけど(少なくとも日本では。タイではわからん。タイにはなぜか「Berryz工房のチケットを獲るべく奔走する父親」のコメディ映画があったりするので……)、なぜ彼女がメンバーの中で唯一世間的な知名度を得たのか、といえばやっぱりその「在りかた」だ。そして、彼女の持つ「在りかた」とはなんだったのかといえば「アイドルのパロディをするアイドル」であり、そしてそれゆえに彼女は歴史に残るアイドルになったと思う。

突然だけど、一つのジャンルにおいて「歴史に残る」とはなんだろう。記録を塗り替える、世界進出する、人気でトップになる……色々あると思うが、一番は「ルールや定義を書き換える」ということだ。

たとえば、AKB48もまた、歴史に残るアイドルだろう。それは地下アイドルからあそこまでの人気を得たからではなく「会いに行けるアイドル」という自分たちのキャッチフレーズでしかなかったものを「アイドルとしての条件」「アイドルとはこういう(会いに行ける)ものだ」に変え、アイドルの戦場を「テレビから現場」に変えたから歴史に残るのだ。

そもそもファンはアイドルにどんな欲望を向けているのか、といえばそれは「知りたい」という欲望だ。ファン活動とは「アイドルの情報を集めること」と言い換えることができる。それはAKBの登場以前からそうだったが、「テレビから現場へ」という変化、そしてそこにSNSの台頭が上手く重なり「アイドルの情報を集める」ことが容易に、そして多面的になり、アイドルは発信を、ファンは収集を無限に行えるようになった。

じゃあ、ももちはそんなアイドルだったか?といえばそうじゃない。彼女が憧れるアイドルは松田聖子、前時代のアイドルであり、ももち自身も同じように、ファンとアイドルに一定の距離……つまり当時のアイドル事情とは逆行する形でファンの得られる情報に制限をかけ、ステージの上と下の距離感を意識しながら虚構としてのアイドルとして在ろうとしていたように思う。少なくとも理想としてはかくあるべしと思っていた、気がする。

以下のインタビューを見てほしい。

「コンサートとか、一回DVDで見させてもらったことがあるんですけど、すごいなって思ったんです。みんなの理想のアイドル像というか、完璧なアイドルさんだなって思って。コンサートとかで心掛けてることとかありますか?」

嗣永 「すごくアイドルを楽しむっていうのを、大事にしています。今のアイドルって、すごく裏側を見せるっていうか、ドキュメンタリーふうじゃないけど、こんな苦労があって、下積みがこれだけあって、こんなに華々しくデビューしました!みたいな、そういう軌跡を追うのが、何となくアイドルっぽくて。ファンの方もそれを見て、応援しなくちゃっていうのが、ファンの方とアイドルの関係性だなっていうふうに思うんですけど、私が憧れたアイドルっていうのは、ただキラキラしている存在。生活や仕事でうまくいかないなとか、学校嫌だなとか思ってたけど、そのアイドルを見たら元気になるみたいな、そういうアイドルを見てずっとハロプロにいたから、どっちかというとそうありたいなっていう気持ちのほうが強いんです

自分が憧れたアイドルは「ただキラキラしている存在」であって、その裏側を物語として切り売りするというものではない。つまり「過程と結果」ではなく「結果」だけを見せるのがアイドルということだ。

ところで、Youtubeでやたら再生されている「ももちのギャップ」というタイトルの動画がある。

この冒頭のテレビ番組で、ナレーターが興味深い発言をしている。「めんどくさいアイドルノリにお付き合いください」だ。つまり、世間一般からももちの振る舞いは「めんどくさいアイドルノリ」として受け取られているということになる。

どうして「めんどくさいアイドルノリ」と感じるんだろう。これはももちが「前時代的なアイドル像(イメージ)」に憧れ、結果としてそのパロディを演じているからだ。イメージというものは最先端、リアルタイムを反映するものではない。「〇〇ってどんなイメージ?」と聞かれたとき多くの人が答えるのは、常に前時代のものを元に作り上げられたイメージなのだ。
だから、ももちは「前時代のアイドルを元に作られたアイドルのイメージ」をパロディした存在になる。それも、誇張した形で。ここが、ももちの在りかたを「トレース」ではなく「パロディ」と呼ぶ所以である。
ももちは決して、憧れているからといって再現をしているわけではないのだ。誇張されたパロディは、その元ネタが視聴者の大半や共演者たちが共有されることで、好意的に受け入れられることができる。元ネタのイメージを共有できない若い世代からは、もしかしたら単純なイロモノとしか見えないかもしれない。

そして最後に、ももちが何故アイドルの歴史に残り得るかを書こうと思う。初めに僕は歴史に残る条件として「ルールや定義を書き換える」と書いた。では、ももちはどうやってその条件をクリアしたか。そのヒントは「ももち」という存在が世間に広まって以降の「アイドル」というものの表象にある。以下の画像を見てほしい。

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黒髪のツインテール、全身ピンクの衣装、特徴的な決めポーズに、ぶりっ子風な振る舞い。ももち以降、そんな要素を持つ「アイドル」キャラが架空の作品世界に現れたり、あるいは「アイドル」というものを表すアイコンとしてテレビに登場した。実際にモデルにしたというキャラクターもいるだろうし、意図せずとも影響を受けたというものもあるだろう。しかしなんにせよその現象は、ももちの「在りかた」がパロディの対象になったということであり、「アイドル」というもののイメージそのものになったということだと思う。

ももちは「(前時代的な)アイドルのパロディをするアイドル」として世に現れ、「(現代的な)アイドルのパロディ元となるアイドル」として去っていったのである。

ももちは現役時代、散々「キャラを作っている」と言われ続けていた。もちろん、そういう面も当然ある。だが、それ以上に「“アイドル”それ自体のキャラクター」を嗣永桃子は再定義した、そこにこそ注目するべきなのだ。その出発点が「アイドルかくあるべし」という彼女のごくごく純粋な憧れであったことに、ぼくはやっぱり、すごいなーと思うのだ。



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