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1/27 アイドルものというジャンルについて

『推しの子』という漫画があるのだけど、自分はこれに興味を持ちつついまだに読んでいません。もしかしたら好きじゃないタイプのアレかもしれんな……という思いがあるからです。

その「好きじゃないタイプのアレ」とは、「キラキラ輝いてるように見えるアイドルだけど、「現実」は……」というような要素をもつ作品のことです。全然そういう漫画じゃなかったらすいません。表紙と作者だけで判断してます。

アイドルもので「現実」というのを殊更に強調されると「なんかなぁ……」という気になるのです。時々こういう作品はあります。『Wake up girls!』とか。自分がアイドルものに求めているのは、むしろ非現実的な要素です。それもあって、一番好きなアイドルものは『ゾンビランドサガ』なのですが。

というわけで、今日は「アイドルもの」というか「アイドル」について書こうと思います。

「アイドル性」とは

まず私は、アイドルものというジャンルの作品が真に「アイドル」ものであったことはほとんどない、という風に考えています。まずはそれについて説明していきたいのですが、そのためには「アイドル性」について考えなければいけません。「アイドル性」、すなわち「アイドル」をアイドルたらしめているのはなんなのか、何があれば「アイドル」といえるのか。ということです。

たとえば役者なら演技、歌手なら歌、ダンサーならダンス、モデルならビジュアルや立ち振る舞い……というように、芸能界にいる人たちは、特定の技能によってその価値が定まっていくものです。しかし、アイドルにはこれといったものがありません。演技も歌もダンスもモデルもやりますが、別に「これができればアイドル」というものはないのです。それらができずともアイドルをやっている人はたくさんいますし、逆に本職を超える実力を持ちながらアイドルをしている人もいるでしょう。この「これができればアイドル」という基準の無さが、アイドルという職能の「なりやすさ」でもあり「評価され難さ」でもあるといえます。誰でもアイドルになれるけれど、何をやっても「所詮アイドル」と軽く見られてしまう。たしかにそうなるのは必然です。「これができればアイドル」というスキルが明確に存在するわけではないのですから。芸能界にいる他の仕事と比べて、あまりにあやふやな存在です。

猫だって 杓子だって 名刺を作れば即アイドル
世界でもまれに見る 特殊な職業 Jアイドル

Berryz工房「普通、アイドル10年やってらんないでしょ!?」

では、彼女ら/彼らのファンはアイドルの何に魅力を感じているのでしょうか。言い換えれば──ここで私たちは、はじめの問いに戻ることになります──アイドルを「アイドル」たらしめている「アイドル性」とは何なのでしょうか。

私はそれを「その人について知りたいという欲求を喚起する性質」だと考えています。つまり、アイドルを推すということの本質は「その人について知りたい」と感じることである、ということです。すなわち、他人に「この人について知りたい」と強く感じさせる存在であるほど「アイドル性」が高いということなのではないか、と私は考えています。

アイドルとファンの関係が疑似恋愛と評されるのも、そこに起因するのではないでしょうか。恋愛というのもまた「この人について知りたい」と感じ、ひいては「この人について、自分だけが知っていたい」と感じることではないかというように思うからです。そしてまた、アイドルが「この人について知りたい」という欲求を喚起させる存在であることによって、とあるものが要請されます。それは「キャラ」です。

アイドルと「キャラ」

アイドルと「キャラ」は切っても切り離せない関係にある……とされています。近年ではあのちゃん(元でんぱ組.inc)、少し前ならももち/嗣永桃子(Berryz工房)などがその代表でしょうか?アイドルたるものどのようなキャラで売り出していくかが重要、ということは広く一般にも共有されている感覚ではないかと思います。では、なぜ「キャラ」がそこまで重要なのでしょうか。端的にいえば「キャラ」を設定することは、それと表裏一体となった「素」の存在を仄めかすことに等しいからです。事実、アイドルをめぐる言説において「素」が言及されることは珍しくありません。そして、アイドルに対して向けられる「この人を知りたい」という欲求は「キャラ」が設定されることによってある種のゲームとなります。「この人の「キャラ」の向こう側にある「素」を探る」というゲームです。

「ラジオ」というメディアがアイドルファンに好まれるのもまた、そのためではないでしょうか。たとえばアイドルがコンサートやテレビ、握手会といった表舞台で見せるのは基本的には完全な「キャラ」としてのアイドルのはずです。しかし、ラジオというのは例外的に、普段よりわずかに「素」に近い姿を見せているように錯覚させる効果を持つメディアのように感じます。これは私の感覚的なものなので、実際どうかはわかりませんが……。

少し脱線しましたが、要は「キャラ」の向こうにある「素」を探るのが、現代におけるアイドルのスタンダードな消費の仕方である、ということです。ここでようやっと、前述した「私は、アイドルものというジャンルの作品が真に「アイドル」ものであったことはほとんどない」という話と繋がってきます。なぜ、アイドルものが真に「アイドル」ものであったことがないのでしょうか。それすなわち、アイドルを扱った作品において、登場するアイドルたちは「素」が全く隠されないまま描かれるからです。

アイドルと「アイドルもの」

当然ですが、アイドルものにはステージ上を描いたシーン以外も登場します。アイドルたちが事務所でくつろぐ姿や、トレーニングに励む姿、学校に通う姿や家で家族と語らう姿など。しかし、それらはすべて現実のアイドルが普段見せないような姿であり、「キャラ」の向こうに隠された「素」です。アイドルものに登場するアイドルは、アイドルとしてのキャラと素のキャラがほとんど同一のものであると言って良いでしょう。そうすると、彼女たちを推すことと現実のアイドルを推すことは、本質的に相当違う営みということになるのではないでしょうか。アイドルもののアイドルたちは、私たちファンに「この人について知りたい」という欲求を喚起させることが少ないのです。ただし、例外的な作品もあります。たとえば『ゾンビランドサガ』です。

「ゾンビランドサガ」の何が良いのか

『ゾンビランドサガ』は、ゾンビとして蘇った7人がアイドルグループ「フランシュシュ」として佐賀県を盛り上げるというストーリーとなっています。つまりアイドル全員が、物語開始時点で既に死んでいるアイドルものです。

ただし、彼女たちが「なぜ死んだか、生前どんな人間だったか」は物語開始時点では隠されており、物語の進行に従って明かされていきます。つまり、彼女たちには現在の「アイドルとしての姿」と、時系列的には物語が始まる以前の「生前の姿」が存在し、視聴者は後者について想像を膨らませながら視聴することになるわけです。「この子は生前どんな姿で、どうして死んでしまったのだろう」と。これはまさしく、私たちが現実の「アイドル」と対峙する姿勢と同じではないでしょうか。フランシュシュの7人は、この意味で真の「アイドル」であり『ゾンビランドサガ』は完全なる「アイドルもの」といえるのではないか、と私は思うわけです。

アイドルと私

私は大学一年から四年の最初辺りまで、アイドル事務所のスタッフとして働いていました。別に自分から「やめます」と言ったわけではないのですが、ある時からぱったり連絡が来なくなったので長いことその仕事はしていません。(なぜかツイッターのフォローが帰ってきました。)正直使えるやつではなかったと思うので仕方ないなとは思うのですが、「アイドル」という存在は自分にとってかなり面白いものであり、こんな風に色々考えるくらいには愛着のあるテーマです。部屋の本棚には「アイドル」関連の本がまとめられた棚なんかもあります。

レポートなんかで「アイドル」をやる人とかいれば貸します。

なので、今回私が書いた「「アイドル性」とは「その人について知りたいという欲求を喚起する性質」である」というのは、かなり実感に基づくものでもあります。どうやら歌が上手いから、外見が良いから、ダンスが上手い人がアイドルとして人気になるわけではないようだ、彼女たちの「魅力」とは、「アイドル性」の本質とは何なのだろう……と、働いていた当時からそんな風に考えていたわけですが、今回はその考察の一部を文字に起こしてみました。

あなたも「アイドル」について考えよう。

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