10/5 映画感想『由宇子の天秤』ネタバレあんまり無し
たとえるなら、「一匹狼の漁師・由宇子が海に出てどんどん魚を捕まえていくが、捕まえても捕まえても魚は無限に出てくるし思ってたより海広すぎ、海はヤバい、海は広大だ……」みたいな映画である。観ている側としては「もうこれ一人じゃどうにもならんだろ……」と人間一匹の矮小さにやるせなさがいっぱいになる。「一人の人間が「どうしようもなく大きなもの」に立ち向かっていく」という意味では怪獣映画みたいなもんかもしれん。いや流石に違うか。
ドキュメンタリー監督が主人公で、番組作りのためにとある事件を追っていて……という筋書きだけ知っている人が ↑ の感想を読んだら「ははぁ、国家権力が出てきてスケールのデカい闇があって……的な話ね」とか思うかもしれないが、そうではない。そんなものは出てこない。この映画に登場するのはいくつかの家庭と、塾と、学校と、地方のテレビ局ぐらいである。別に飛行機も船もでてこないので、どこか遠くに舞台を移したりもしない。移動手段は車オンリー。主人公はずっと車でグルグルグルグルしているのだ。その車窓からはどんよりした似たような街の風景がやたら続いている。この映画におけるキーポイントの8割は基本的に車の傍で起こると言って良い。車映画だ。それも違うが。
由宇子が直面する「どうしようもなく大きいもの」は「みんなが本当のことを隠そうとする」せいで生まれてくる。そして、ついでにいえばその外側には、更にどうしようもなく大きな「社会」というやつがラスボスの如く控えている。しかし、ラスボスはその影を見せるだけでつま先も登場しない。由宇子が作中で戦うのが海だとすれば、「社会(や世間)」は宇宙だ。そして、登場人物には既に宇宙と戦ってボロボロになったり、宇宙との戦いを避けるためあらゆる努力をする人なんかがいる。
ドキュメンタリー監督として番組を作って放映し「宇宙=社会(や世間)」に戦いを挑むことになった由宇子がそのための取材をしていくなかで起こる戦い、いわば前哨戦を描いていくのがこの映画、なわけだが……。
今回はその前哨戦で由宇子が戦っていく「みんなが本当のことを隠そうとする」ことの困難について書く。
まず登場人物は大体なにか隠しているし、何か新しく見つければそれも隠す。由宇子自身もわりと隠すし、他の人ももちろん隠す。
自身も隠し事を抱えながら、他人の「隠された真実」を追っていく由宇子だが、追えば追うほど新しい「隠された真実」や疑惑が出てくるし、もうあっちもこっちも大変だ。そんなこんなしてる間に番組のオンエアも迫ってくる。もうどうすりゃいいんだ……どうにもならない。
皆の隠し事が積み重なった結果、どこから手を付ければ問題が解決するのかわけがわからないのだ。無力感が凄い。こう書くと物語の風呂敷がめちゃくちゃ広がって話の収拾がつかなくなっている映画なのかと思われるかもしれないが、それは全くそうなっていない。映画は見事に仕上がっているのである。監督凄い。凄い仕事っぷりだ。逆にぜんぜんな仕事っぷりを見せるのは由宇子の仲間のおっさんである。
仕事仲間のおっさんは、この映画の登場人物にしては珍しく隠し事は特にないが、由宇子が車でグルグルしているときに「局の社員になれるかもしれん……w」とか浮かれているのだ。なんておっさんだ。由宇子の気持ちも考えて欲しい。この映画がどうしようもないやるせなさを感じさせるのは由宇子の孤独な一匹狼感もデカい。それも望んで一匹狼になったというか、周りが頼りにならんのである。
この映画はラスト、「え!?これで終わり!?あれはどうなったの!?あれの真相は!?」と気になる終わり方をする。しかしそれは「観客の諸君!続きは皆で考えてくれたまえ!」と投げかけているようにも思えない。いや、実際そういう受け取り方をする客もするだろうし、それはそれで良いと思うが、ぼくは違うと思う。この映画の監督である春本雄二郎という人はきっと単に真相を「隠した」のだ。
それは『由宇子の天秤』という作品の登場人物たちがどいつもこいつも色々なことを「隠した」ように、監督はそうしたのだ。というわけで、別にあのラストを観た観客は「真相を追う」でも良いし「満足したので十分」でも良いし「そこから何かを考える」でも良い。なにかを「隠した」ことによる反応はそのように無限に多様であり、その連鎖はやがて手に負えないようなデッカイものになっていくのである。『由宇子の天秤』は、そういう物語だった気が、ぼくはする。
ところで、この映画を観る前、マジでビビったのだがスクリーンに入る前に監督に話しかけられた。というのも、監督は入り口に立って入場する人たちに「この映画の監督をした春本ですー、良かったら感想とか呟いてくださいねー」とか言いながらニコニコ名刺などを配っていたのである。
最初出入口にいるのを見たときは誰なんだあの男は……と思っていたので「監督ですー」と言われたときは「えぇ!?あっ、はぁ……」と返すしかなかった。
周りを見ると、ぼくが『由宇子の天秤』を鑑賞したユーロスペースという映画館はこの映画の関係者サイン入りポスターも飾ってあれば壁には取り上げられた新聞記事、カウンターではパンフレットに加えて脚本なんかも売っている『由宇子の天秤』激推し映画館なのである。そりゃあ監督くらい出入口にいるかもしれん。
しかし。あれは本当に監督だったんだろうか。監督が「隠した」もののうちに、自分自身の正体も入っていないとは限らないのだ。あの時ぼくに名刺と『由宇子の天秤』スタンプカードをくれたのは……誰なんだ……?
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