8/3 カラっとした/ジメっとした作品

作品に対する感想で「救済」とか「祈り」という言葉を見ることが結構ある。が、なんだか見るたびに「?」となってしまう。なんとなく受け入れがたいというか、距離を取りたくなる。

まぁ、単に自分はカラっとしたものが好きなので、そういった言葉を使うといやにジメっとした感想になるから好きではないのかな、と素朴に思っていたのだけど……もう少し正確に、この感覚について考えたい。

少し脱線するが「カラっとしたものが好き」というのも最近気づいた自分の趣味だ。カラっとした、というのもぼんやりしているので『ライチ光クラブ』(以下ライチ)という作品の例を挙げて説明しよう、と思う。

ライチは古屋兎丸が描いた漫画『ライチ☆光クラブ』と、その元となった作・鏨汽鏡の舞台『ライチ光クラブ』があるのだが(他にも前者を原作とした実写映画や舞台もある)、自分としては前者が「ジメっとしている」そして後者が「カラっとしている」。

2つの大きな違いは作中で展開される人間関係だ。これは人気を集める理由の一つでもあるのだが、漫画版やそのメディアミックスでは、メインの少年2人の愛憎劇が大きく物語に絡んでくる。ライチは一つの組織が崩壊していく様を描く物語なのだが、その原因の中核にあるのが漫画版ではその愛憎劇だ。痴話喧嘩で崩壊するサークルみたいな感じにも見える。
それに対して、舞台のライチはその愛憎劇が無い(らしい。らしいというのは僕も当時リアルタイムで観劇したわけではないからだ)。舞台版は各々の思惑が交差した結果必然的に淡々と死んでいく、という感じで、例えるなら2つは「痴情のもつれで刺されて失血死」と「実験が失敗して爆死」というような印象の違いがある。

加えて舞台版は、というかこれを上演した東京グランギニョルの作品全般に言えることな気もするけれど……あまり人を人として扱おうという気があまりないというか。それも物語内だけのレベルではなく、役者も役者ではなく舞台機構と同列に扱おう、としているような感じがもする。

ライチでは人間と機械の交流や、人間の身体を機械化しようとする展開があるのだけど、そこにもそういう人間に対するある種冷めたフラットな視線を感じる。これは戯曲を描いた鏨というよりも、演出の飴屋法水の考えが大きく反映されているんじゃないだろうか。飴屋のキャリアを見ると人間の身体について色々と試行錯誤しているらしく、たぶんこのグランギニョル時代の「人間の身体を特別視しない」志向もその一環じゃないのかと思う。たぶん飴屋も「カラっとした」方が好きなんじゃないか。
(実はBL的な描写がなかった舞台版でもそういった趣味でライチを観劇する客は多く、飴屋はやっぱりそういった見方を嫌がっていたらしい。男ばかりの舞台だったためBL雑誌に取り上げられたんだそう)

それに関連するようなしないような話なのだが、飴屋は自分の芝居のファンについてこんなことを言っている。

「観客に共感されるっていうか……自称ナイーブな少年少女に共感されることへの嫌悪は常にあったね。来るんだよ、突然、家に、私両性具有なんですとか、私セックス恐怖症なんですとか、私大人が大嫌いなんですとか言っちゃって」

こういうファンっていつの時代にもいるんだな……と思う。令和に生きていたらシンエヴァに対して「この作品は俺を救ってくれない!庵野許さない!」とか言ってそう。

救う……そう、元はそういう話だった。創作物に対して「祈り」や「救済」と形容することへの拒否感。さっきのファンの話もそうだけど、自分の内面を作品に押しつけている気がする。
これは自分に何かを与えてくれる/自分のための物語だ、というような感覚を覚えてしまうような作品への過剰な感情移入に対して「それってちょっと気持ち悪いよ」と僕は考えている、のだと思う。それに加えて、そういうジメっとした叙情的な感想がどんどん語られていくことで作品そのものがそういうものとして扱われていくことへの違和感もあるんだろうか。
もしそうなら、単に個人的な「カラっとした」作品が好きだという自分の趣味に合わないというだけなのか。まだよくわからない。

ジメジメしていない、カラっとした作品が増えて欲しい。でも、最近だとそういう作品はあまり正しくない、配慮が足りないものとされて出てこなかったりするのかな?元々加害者に対する想像力がない今の社会で正しさを突き詰めていくと、正しくない存在が出てきた時にただ排除するだけになっていく気もして、怖いけど。





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