10/3 「あたし」か「わたし」か。

男性が「私」という時は大体「わたし」と言っているように聞こえる。しかし女性が「私」というとき、それが「わたし」と言っているのか「あたし」と言っているのかよくわからない。ぼくの耳にはどちらでもないように聞こえる。文字にするなら、感覚的に一番近いのが「はたし」だ。

「は」というのは「WA」と読むこともあれば「HA」と読むこともある。「は」と一文字出されたら大抵「HA」と読むだろうけど、もしかしたら「こんにちは」から切り取って来た「は」やもしれないし、「おはよう」から切り取ってきた「は」かもしれない。女性の一人称としての「私」を聴いたとき、正体不明の「は」と対峙した時のような感覚を覚える。どっちで発音しているんだろう?

文字で読む「私」、たとえば一人称小説における「私」はそこまで気にならない。しかし、それとは別に気になることがある。この「私」はどうしてこんなに長々と、なぜ語っているんだろう。当然それは、小説とはそういうものだから、そうしないと一人称小説が成立しないから、と言われたらそれまでだけど、普通に考えたらおかしいはずだ。回顧録や日記だと説明されたら別に気にならない。回顧録も日記も「私」が長々と語るものだからだ。しかし、単なる一人称小説は。なぜ「私」は延々と語り続けているのか。

……なんてことを叫びたくなるが、胃腸炎というのは嘘だから素直に引き下がるしかない。我ながらクズだと自嘲しながら、私は教室内を見回す。
 私立大学のメイン校舎にある二十三番教室、収容人数は三百人。席は疎らに埋まっていて、大体百八十人ほどの学生が次の授業に向けた支度を始めている。同世代の人間がこんなにも存在しているのに、この中に友達と呼べる人間は一人もいない。
 コミュニケーション能力を求める社会が、今日も私を殺そうとしている。

──武田綾乃『愛されなくても別に』(2020年、講談社)

この小説の最後まで、彼女は「私は、」と自分を中心とする経験を語り続ける。しかし何故。誰に。「いや、読者に語っているのでは?」と思われるかもしれないが、彼女は第四の壁を破り、読者を認識しているわけではない。最後まで彼女の視線は作品内世界から出ることはない。であれば、たしかに形式的には読者に語っているのかもしれない(少なくとも読者はそう感じる)が同時に、作品外世界を認識しない彼女が「読者に語りかける」ということはありえない。では、作品内世界で「私」は何故、誰に延々と語りかけているのか。比較のため、三人称小説の文章を読んでみよう。

マサルは銀座四丁目の交差点にすわっている。背後にあるシャッターの閉じた建物は、かつては大きな時計屋だったらしい。建物全部が時計屋だなんて信じられないことだが、こんなに大きな時計屋が必要だった時代とは、どんな風だったのだろう。このビルの最上階の塔についている大きな時計は、マサルが知る限り一度も動いたことはない。

──薄井ゆうじ『眠れない街』(1998年、小説non)

このように、三人称小説は作者=神の視点で書かれている。これは誰が誰に語っているのかわかりやすい。シンプルに、作品外世界にいる作者=神が、同じく作品外世界の住人である読者に語っている。それなら、一人称小説もまた、同じように考えれば良いんじゃないか。

つまり、一人称小説は偽装された三人称小説でしかない、と考えてみるというとだ。具体的に言えば、一人称小説における「私」というのは、決して作品内世界にいる「私」本人が語っているのではなく、神の視点に立つ作者があたかも「私」本人かのように一人称で語り続けているってことだ。一人称小説において登場人物自身が語っているのはあくまで「」で括られた台詞のみであって、「私は、」という地の文は作者が登場人物を演じながら語っているんじゃないか。監督が主人公の心中を絶えずモノローグ形式で喋り続ける映画のようなものってことだ。これが映画であれば、主人公の台詞とモノローグの声が違うことにすぐ違和感を覚えるけど、小説だとそうはいかない。

「私ね、多分、このままだとお母さんを殺しちゃう」
握ったままの包丁の柄には、私の体温がすっかりうつってしまっている。憎いわけじゃない。ただひたすらに、悲しかった。私だって素直に母を愛したかった。それが許されない現実が、私の肺を圧迫していた。包丁を握る。強く、強く。

──武田綾乃『愛されなくても別に』(2020年、講談社)

読者は「このままだとお母さんを殺しちゃう」と語る私と、「私だって素直に母を愛したかった」語る私を素直に同一視する。だけど、「作品外世界を認識しないはずの語り手が作品外世界の読者に語りかける」という一人称小説の構造的矛盾を解決するためには、その二者が実は「登場人物」と「登場人物を演じる作者」であり「「一人称小説」として書かれる多くの小説は実は「一人称小説」を偽装した三人称小説だ」と考えるべきなんじゃないか。

もし小説から、書かれた文が音となって流れてくることがあれば、一人称小説の地の文と、「」に括られた語り手の台詞は違う声になるはずだ。そしてそのとき、文中の「私」が「あたし」なのか「わたし」なのか……というのも同時に、わかるはずだろう。





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