8/4 半分しかない

2つでセットのはずのものが1つしかない、ということが僕にはよくあるし、そのおかげで得られた体験もあった。そのせいかはわからないけど、僕は「双子」とか「二項対立」が好きだ。

そもそも、僕自身名前が二つある。というか、あった。僕の本名は生後なかなか決まらず、延々と決まらず、他の新生児と区別しないと仕事がスムーズに行かないと業を煮やした産婦人科が「秋男」と便宜上名付けた。(10月生まれだから)
僕はそう呼ばれた記憶はもちろんないし、秋男であった時間は人生のなかでめちゃくちゃ短い間だったのだけど、僕は今でも「あきお」という読みの名前を見るとちょっと気になるし、病院でとりあえずつけられたものだったとしてもそれはれっきとした僕の名前だ。

そんなわけで僕には初めてついた名前と次についた名前があり、前者がもう使われなくなったということを考えるとなんだが、自分の「片方が欠けた一対」というものへのこだわりのルーツがあるような、ないような気がする。たぶん無いが。そうすると、どうして好きなんだろう。

わからない。けど、初めに書いた通り僕は「片方が欠けた一対」がすごく身近にある。それは大袈裟なことではなくて、たとえばこういうことだ。

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片方しかない。めっちゃ不便。でも新しいのを買うのはめんどくさいし、片方しか残ってないのって愛着湧くなぁと思って今に至る。それに、片方しかなくて本当に困ることってなんだろうと考えると、別にそんなものはない。もちろん、初めから片耳イヤホンだったら買わないし、片掛けメガネだったら買わないから、最初から片方しかないってはどうなのかと思うけど。

これは物だけじゃなく、なにかを考えたりするときもそうで、たとえば自分が○○について賛成だと思ったときというのは、それは初めから賛成しか選択肢がなかったわけではなく(自覚としてはそうかもしれないけど)、自分のなかの賛成意見と反対意見を取捨選択して賛成意見になったのだから、そうすると自分と対立する反対派はifの、自分だったかもしれない存在ということになる。どれだけ自分と対立していたとしても、そういう想像力があればより良いことが考えられると僕は思っている。

ただまぁ、「自分だったかもしれない」とは到底思えない存在だっている。けど、そういう相手からめちゃくちゃ感動させられることもある。僕は高2だったとき、文化祭でケバブを作るクラスにいた。だから当日は教室と家庭科室を行き来する必要があり、そのたびに上履きとローファーを履き換えていた。その往復が半日ほど続いて店じまいとなり、後夜祭の時間になったときには僕のローファーが片方なくなっていた。たぶん、どこかの時点で面倒になって靴下のまま歩くことがあったんだろう。しかし、ローファーが片方しかないと帰れない。あ、片方しかないと不便なものもあるな。

仕方なく、僕は後夜祭に行った。そこでは有志の出し物がステージで披露されており、クラスではほとんど喋ったことのない男子グループが当時流行っていたDA PUMPのU.S.Aを踊っていた。そのとき「輝いてるってこういうことか」と、すごく感動した。特別上手かったわけでもないし、彼らのことはむしろ苦手だったけど、そのパフォーマンスには人生で一番感動させられた記憶がある。だから「自分だったかもしれない」とは到底思えない存在だったとしても、それは自分にとって価値がない存在ではないわけだ。そのステージを観なければ僕は彼らのことを自分とは全然関係ない存在、相容れない存在だとずっと遠ざけていただろうけど、それ以降はそうでもなくなった。








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