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1/3 年始① 家族と責任

あけましておめでとうございます。今年の目標は「ひととの交遊にお金を使う」です。

正月は毎年親戚と会っているのですが、僕はその場があまり得意ではありません。嫌な人たちではありませんが、常に緊張させられます。自分のことを質問されたりするのが苦手です。出てくる料理が美味しいので、良いんですが……。


同じように感じる人は多いと思いますが、親戚というのは妙な関係性です。別に普段から交流があるわけではないので、おそらくこれまでの人生で彼らと話した時間はそう長くないし、お互いのこともよく知りません。けれども彼らは血縁というだけで僕と「近い」関係性ということになっている。しかし、お互いのことを知らない、というと親も似たようなもののような気がします。一緒に生活してきたのでよく知っているような気がしますが、例えば僕は親が自分と同い年の頃どんな生活をしていて、どんな趣味嗜好をもっていたのか知らない。僕は親としての彼・彼女を知っているだけで、親ではなかった時の彼らのことはあまり知らないわけです。

もちろん、当たり前と言われればそうかもしれませんが……しかし、僕がここ1年半ほどなんとなく考えてきたのはそんな「親ではなかった時の彼ら」についてでした。

もう少し正確に言うと「親に親としての人生を選ばせた責任」についてです。僕の親は、僕が生まれたことで親になりました。当然、僕が生まれなければ、親としてではない人生の可能性が無数にあったわけです。僕が生まれた時点で、その可能性は無くなってしまいました。

もちろん、僕を生むことを決めたのは親です。だから、彼らが親以外の可能性を捨てたのは自己責任であるという考え方もできるかもしれません。しかし、その決断をしたのは彼らがせいぜい30になるかならないか。そんな若い歳で決めた選択に20年も人生を縛られ続けるというのは、あまりに酷ではないか、とも思うわけです。

そして僕はもう、1年半前に成人しています。それならば、彼らを親にしてしまった責任──といっても、もちろん過去に戻って自分の存在を消すことはできませんから──その時に彼らから奪ってしまった「親として生きる以外の可能性」を多少なりとも回復させる責任があるのではないか、と20歳になった頃から思っていました。

まぁ簡単に言えば、早く自立しようという話です。自立して、彼らが親では無い個人としての人生を生きられるようにしなければいけない。成人した自分にはその能力がある(べき)のだから……今年は自立するために頑張ろう、という極めて一般的な決意表明です。

しかし、それを達成しただけでは「親に親としての人生を選ばせた責任」を十分に果たしたことにはなりません。それは、今後の彼らの人生に「親として生きる以外の可能性」を回復させるというだけであり、すでに過ぎ去ってしまった20年分の「親として生きる以外の可能性」が戻ってくるわけではないからです。当たり前ですが。

かといって、それをそのまま取り戻す方法はない。であれば、彼らが親として生きた21年が、それ以外の可能性を捨てるだけの価値を持っていたと感じさせること、これが唯一、僕が責任を取れる方法だと思います。

そしてこれこそ、この責任問題について考え始めて1年間ほどモヤモヤしていたことです。というのも、これまでの僕の「子としての21年」を振り返ってみた時、それはまったくもって、二人の人間が自らの21年分が持つあらゆる人生の可能性を捨ててまで「親として」生きるに足るものかわからなかったからです。

僕は彼らが親でなかった頃のことをよく知りません。しかし、彼らが2000年10月から2022年1月まで「親として」生きることがなかった場合、そこに存在したあらゆる可能性の方が、彼らにとって僕の「親として」生きた年月より価値があり得たのではないか……無論、言っても仕方ない話ではあります。が、やっぱりそういう風に考えてしまう。

なので、僕は「親に親としての人生を選ばせた責任」を果たすために、自立して彼らの「親として」ではない人生を早急に回復しつつ、同時に彼らが既に親として生きた21年に(それ以外の生の可能性を捨てるほどの)価値があったと思えるような存在にならなけれはならない。

そうしなければ僕自身が「親に親としての人生を選ばせた責任」、簡単に言えば僕が思う「子としての責任」から解放されないからです。……まぁ、そんなことも念頭におきながら、2022年を過ごしていきたい、みたいなことを思っています。

もちろん、僕のことを知っている人や、これまでのnoteを読んでいる方なら「それはなかなか簡単ではないんじゃないかな?」と思うでしょうし、僕自身、やっぱりそんな気がします。

余談

本題とは外れますが、僕は両親が不倫をしていたとしても仕方ないというか、自分に怒る権利とかはないなぁと思っています。

というのも、僕の存在は彼らが自由に恋愛する権利を制限している理由の一つでもあるはずだからです。子のいない夫婦の不倫と、そうでない不倫はリスクとハードルが違います。

そういう意味で、ぼくは人間なら当然あるべき自由に恋愛する権利を制限し続けている、ということになります。彼らが、現在とは違う別のパートナーを選びたいと考え、それ自体は全く自然なことにも関わらず(もちろん、社会的には非難されるだろうけど)、ぼくがいることで断念したことが、一度もないと言えるでしょうか。言えないと思います。いや、別にそうあってほしくはないんですけどね。

しかし、これには僕が元々不倫や浮気というものをあまり問題視していないというのもあると思います。やっぱり本命の相手がいれば、逃げ場としての相手が必要になってきたりもするというか、一人の人間に強い気持ちを向けられるというのはストレスなので、それを逃す場所が必要になってくるでしょうし。そんなわけで、今年は芸能人の不倫報道とかも、あんまり叩かれない1年だと良いなぁと思いますね。




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