1/12 やるべきこと

noteを書くとかではない。noteは、書かずとも良い。今やるべきことはまず、図書館に本を返すことだ。まずは、大学の図書館。これは確か、1/11までに返さなくてはいけなかった。これ以上遅れる前に返すべきだ。

次に、地域の図書館。これは、12/12までに返さなくてはいけなかった。2週間以上返却が遅れると、貸し出し停止する場合もあるらしいから、早くしないといけない。

あと、『知覚の現象学』という本を読まなくてはいけない。その本を読んで議論する、という授業を9月から取っているからだ。毎授業、全員が特定の箇所を読んできて、そのうち一人が内容をまとめて皆の前で発表、意見などを交わし合うという文系らしい授業なのだが、一度も読めていない。出席した時は、内容がわからないから何も言わずに黙っている。

端的に、本が難しくて読めない。たしか授業の始めに先生が「この本は難しいから皆で一緒に読んでいきましょう〜」とか言ったから安心したのに。実際は「授業で取り上げる箇所はとりあえず一人で読んでこい。他の人と意見を交わせる位内容を理解して授業に出よ。」ということであった。誰も僕と一緒に読んでくれないじゃないか。まったく詐欺的だ。

推薦などを使って自分の身の丈に合わない大学に入るとこうやって周りのレベルについていけずに後悔するので、受験生は真面目に受験勉強をした方が良い。

多少できるようになったこと

歯を磨くことと、風呂に入ること、食事をすること、あと髪を乾かすこと。嫌な話で申し訳ないが、これが半年ほど前から自発的にはなかなか出来なくなっていたのが、少しずつ出来るようになってきた。

これは家族に散々言われたのが大きい。飯を食えだの、歯を磨けだの、風呂に入れだの、入ったら髪を乾かせだの、およそ21歳になって言われることではないことを散々言われ続け、ようやっと自発的にやるようになってきた。初めは「飯を食え、か歯を磨け、かどちらかならまだ良いのに、両方セットとは……」と思っていたが、今考えると当たり前だ。結構できないことも多いが……。

やめた方が良いこと

さっき、自分は食事をしていなかったように書いたが生きているわけだし何かしら食べてはいた。どうやら、自分は何かを食べることがストレス解消になるタイプらしい。ということに最近気づいた。別に美味いとかはあまり関係なく、なにか食べると落ち着く。

ストレス解消だと、買い物も良くする。朝5:00〜6:00辺り、一番眠気が来る時間、判断能力がわりかし落ちている時間にAmazonで色々買う……というのが心地よい、っぽい。ぽい、というのは、買っているとき半分寝ているからよくわからないのだ。たとえば、最近だとこんな感じ。

上から「本、護身用懐中電灯、本、本、本、眉毛シェーバーセット」だ。大体同じ辺りの日にちで届くことから、同じ日に注文したことがわかる。

しかし、今考えると欲しかったのかはよくわからないものが多い。まぁ、届くようだから一応読むし、一応護身用に持ち歩くし、一応眉毛もセットすれば良いだろう。

案外、こういうほぼ偶然みたいなものがめちゃくちゃハマったり、超役に立ったりすることもあるし、ちょっと楽しみだ。

できたかもしれなかったこと

昨日か一昨日は成人式だったみたいだ。僕は去年が成人の年だったけれど、コロナの影響で行われなかった。というわけで、今年は僕と同じ世代の人にとっては全く関係のない日だろうと思っていたのだけど、自治体によっては振り替えで去年度の成人式に代わる式典をやったりしたところもあったみたいだ。僕のところでは、特にそういったものはなかった。

成人式といえば、その後に同窓会などをやるのが普通だろうと思う。同窓会……僕は同窓会に行きたいとはそこまで思わないけれど、同窓会に行った僕がどう感じるかは、ちょっと気になる。しかしまぁ、皆のInstagramとかを一気に見ている気分になる、ということなんだろうか?同窓会だってInstagramだって、「あ、今この人こうしてるんだ〜」というのが見れるというものだろうし。

そうすると、感じることとしては「いいな〜」とかだろうか。僕は自分で投稿することはないけど、知り合いのInstagramの投稿を見ることは時々あって「自分よりたくさん人生経験があって羨ましい」と常々思っている。

高校や中学で繋がっていた人たちが色んな経験を積んでいるであろう様子を見ると、「自分にはこういうのないな〜」と感慨深くなる。感慨深くなるのも変なんだけど……。

こういう時、いつも思い出すものがある。「35歳問題」だ。

ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。

生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば、別の職業を選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直接法過去と直接法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。

 そして、その両者のバランスは、おそらく三十五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。

それはそもそもがこの世界に存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。

東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』


要するに、人間は35歳になると「かつてできたかもしれなかったこと」が「これからできるかもしれないこと」より多くなってしまうのではないか、ということだ。僕はまだ35歳ではないけれど、よくこれに似た感傷を抱く。

Instagramを見ていても、自分の「かつてできたかもしれなかったこと」が並んでいるような感覚を覚えるのだ。同窓会に出ても、同じ感じなんじゃないだろうか。もともと僕は、テレビで凶悪犯罪のニュースが報道されたりしていても「異常者め!」とかではなくて「僕もこうなってしまうかもしれないよなぁ」と思うような、かなり自分と他人との交換可能性を広範に意識しているタイプだから、余計にそうなるかもしれない。

しかしやっぱり、可能性について考えるにしても「かつて、こうなれたかもしれない」ではなく「これから、こうなれるかもしれない」の方を考えたいものだなぁと思う。まだ35歳じゃないしね。

クォンタム・ファミリーズ

懐中電灯



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