新潟のお笑い集団①

ども!みつけてくれてありがとうございます。ヒッキー北風です。男性用白ブリーフに文字や絵を書いてリズム良く脱いでいく芸をやっています。そんなわたくし、2004年から吉本興業に所属しているのですが、その前からお笑いに携わって居ました。新潟のお笑い集団NAMARAにいた時代があります。当時はまだ集団。今は有限会社ナマラエンターテイメントになってます。正直、立ち上げの4年位しか関わらせてもらっていないので当時のナマラと今のナマラは全くの別物かも知れません。でも、良く良く芸人が語る若手時代の苦労話の様な、でも充実感があったみたいな時期は本当の意味ではここです。20歳から24歳までの青春がそこにはあったのです。多分、サリン、ソマン、世界3大毒ガス!あ、すみません。元自衛官の知識が暴走しました。立ち去った集団の話をするのもどうかな?とは思ったのですがなんとなく書いてみたくなりました。1996年の秋、僕は自衛官2年目で新潟県新発田市にある陸上自衛隊第30普通科連隊第3中隊銃剣格闘訓練隊第5班に居ました。自衛隊は説明不要ですよね?国を守る組織。陸、海、空と別れてまして海上自衛隊は海上保安庁とは別組織。海猿は海上自衛隊ではなく海上保安庁です。たまに間違えて入っちゃう人もいます。使っている小銃はどちらも同じです。本題に戻りますよ。僕は2年目の自衛官で訓練にも慣れてきて少し退屈になってました。いや、不謹慎な国家公務員ですね。と言うのもそもそも自衛隊と同じかそれ以上に興味があったのが俳優!今思うとステージに立つ人、もっと言うとお笑い芸人だったのだと今は、そう感じてますが当時は何になりたいのか?なれるのか?それも良くわからなくてモヤモヤしながら木銃でやーー!と言いながら訓練を続けていました。そんな中、同期の隊員が月間新潟タウン情報という東京ウォーカーの様な雑誌を僕に見せてきて半年後に新潟県素人お笑いコンテストが開催されると言う貴重な情報を提供してくれました。これは!と思い当時、騙されて月1の俳優養成学校に通っていた私としては出るしかない!と早口言葉とナレーションの練習ばかりで退屈なレッスンなんかやってられない!俳優つまらない!お笑いはきっと面白い!みたいな単純な発想で出てみる事にしたのです。新潟駅前にあるコミュニティセンターにエントリー希望者が集められました。本番のコンテストの前にそこでお笑いのレッスン?ワークショップの様な事をやってもらえるという事で週に2回集まりました。大喜利や架空の大河ドラマの記者会見を即興でやるなどしてました。そこには社会人、大学生、高校生16歳から30歳の8人くらいの芸人志望??が集まりました。後に20人位になるのですが今は新潟の番組MCをやっているヤンさんとオフィス北野が大好きなキンケシタマゴロウさん、JR貨物職員だったなべちゃん、高校生のコンビのマツタケ、そして、鈍行列車で60分かけて来ていた長岡の高校生ヤングキャベツ、このヤングキャベツのナングくんは中学生の時に東京ドームで行われた吉本興業のイベントで優勝して100万円を獲得、スカウトされるもコンビで入れないなら吉本興業には入らないという理由で断って新潟で活動する事を選んだ天才高校1年生です。で、現役自衛隊芸人の僕ですね。自衛隊の駐屯地以外の人と交流が無かったので単純に毎回楽しかったですね。当時はボキャブラブームの真っ只中でボランティアスタッフで女子高生が100人以上集まったりしていました。最初のネタ会は1ヶ月後で同じコミニティーセンターで行われました。参加したのはスケジュールの都合もあって3組、気がついたらヤンさんとなべちゃんがコンビを組んでました。そして、キンケシタマゴロウさん、僕。新潟県内の新聞、雑誌の記者さんがいる中の人生初のネタ見せ。僕はなんとかコンビで参加しようと思い自衛隊の同期で一番気の弱いたっくんを誘いました。たっくんは当時20歳なのに外出時は必ず学ラン上下、中二コースで全国の中学生と文通するのが趣味という異才を放ったキャラでお笑いに向いていると僕はおもったのですね。後は言う事を聞いてくれそうだったし。でも、そのたっくんにも文通が忙しいという理由でコンビを断られてしまいました。僕は多分、サリン、ソマン、世界三大毒ガス!また自衛隊知識が暴走しました。タブン、ネットワークビジネスのネタをやりました。なんなら台本も未完成でオチも決めずにやったというか、アドリブですね。兎に角追い詰められたのを覚えてます。良く考えたらそんなにピン芸自体も見た事ないのに良くやろうと思いましたよね。次の日にはその事が新潟日報に載るんですね。ちょっと嬉しいじゃないですか?そして、そこから更にひと月後、一般のお客様の前でネタをやる人生初のお笑いライブがあるのです。お笑いライブと言っても劇場では無く、カラオケバーのステージっぽいスペースに乗ってネタをやる感じなんですけどね。カラオケバーライブから参加してきたのが当時、石川県金沢市にあった金沢吉本興業のライブに出ていたアドバンテージというコンビです。僕らからしたらもうプロです。そんなアドバンテージさんも金沢吉本のお笑い虎の穴ではまだ合格してないとか。虎の穴はどの芸人も衣装は黒タイツで統一、1分ネタで10回合格すると吉本興業所属になれるオーディションネタ見せだったようです。黒タイツなのは衣装に頼らない笑いをやるためだそうですが黒タイツの時点でもう意味が出ちゃってるような気もしますが当時はそうだった様です。アドバンテージの漫才は当時既に完成していてボケのさとしくんがスキーウェアをきているという奇抜な設定とちょいちょいスキーに絡めたボケをしてくるそんな内容でした。「サスペンスドラマで犯人が追い詰められたら左分けが右分けにばーーーって変わる!」てネタで凄い笑ったのを覚えてます。ナマラの中で一番お笑い、特に大阪吉本興業の影響を受けていたコンビでしたね。大阪の番組のVHSテープを沢山持ってました。そして、新潟生まれ新潟育ちなのに関西弁を使ってましたからね。石川県、富山県、新潟県はギリ関西圏なのか??と千葉県出身の僕は戸惑ったのを覚えたます。

さてさて、盛り上がりを見せる新潟素人お笑いコンテストのプレライブ集まってから半年後にコンテストがある事は決まっていてそのゲスト審査員に当時ボキャブラ天国で大活躍中の爆笑問題さんが来てくれる事になりました。僕は何も知らない素人ですから爆笑問題さん生で見る事が出来るだけでもうお腹いっぱいなんです。楽しみで仕方ないのです。それは集まったボランティアスタッフ100人も同じ気持ちでした。僕はどうしても相方が欲しくて芸人志望者に声をかけるのですがなかなか見つからず、ついにボランティアスタッフの女子校生にも声をかけました。当時、僕は二十歳ですから3つ歳下くらいの子ですよ。お笑い芸人を目指してるスタッフだと言っていたのでこのネタ帳を見て面白かったらコンビ組んでください!とノートを渡したのです。その次に会った時彼女は「北風が走りました」といってそれ以来ボランティアスタッフを辞めてしまいました。そのエピソードを周りの芸人にしたらもうヒッキーはヒッキー北風でピンでやりなよと言われ、半ばやけになってヒッキー北風でやり始めたのです。それ以来25年ヒッキー北風なんだよね。その子、杉山さんって名前で芸人からはサンダー杉山って言われてました。

そして!新潟素人お笑いコンテスト当時!会場の新潟フェイズは立ち見で1500人入りました。トップで爆笑問題さんがネタをやり審査員席に着いてコンテストの始まり!すると爆笑問題さんのネタが終わって500人くらいがすぐに帰って行きました。これまじだからね。

そしてついに僕の出番!僕の出番はトップバッター。ショーレースでは一番不利とされる出順です。ネタ時間は2分。音響照明使用もありでした。

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