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愛することを選べたならば【ゲ謎感想】

漫画『墓場鬼太郎』において鬼太郎が、左目を失った理由は有名だろう。
鬼太郎の左目は、彼が墓から生まれた瞬間に居合わせた男・水木から「気味が悪い」と投げ捨てられたことで、墓石にぶつかり潰れたのだ。

  ✳︎

映画の中で、私が特に象徴的だと感じたのは、水木と沙代の関係だ。

水木は沙代に対して同情こそあれど、行動としては最後まで彼女の血筋を利用し尽くすのみだった。
沙代だって、村の外から来た人ならば誰でもよかったのだろう。それにきっと、沙代がほんとうに求めていたのは、親から与えられるような種類の愛情だったのではないか。
東京で生き、社会の辛酸舐め尽くした大人の水木は残酷にも沙代の幼い感情を利用する。沙代はその果てに、悲惨な運命に魂までも食い尽くされたのだった。

だが水木には、沙代を救えなかった自分を悔いないことはできなかった。
誰でもない水木こそが、沙代を利用したというのに!

シーンは移り、水木とゲゲ郎は桜の樹下にてゲゲ郎の妻を探す。
愛するひとを求めうつくしい水に潜るゲゲ郎に対して、沙代を裏切り決定的に手を汚した水木は、斧を手にして地上で血に塗れ続けていた。

個人的な印象としては、このシーンの水木は、ゲゲ郎のことが羨ましかったのではないかと思う。
もしも目的も地位も全部捨て、彼女を愛して自由を与えられたのならば、どれだけ水木自身が救われただろうか。
心に決めたひとを何年探し続けることだって厭わない、強い衝動。
愛情。

けれど水木が、愛の芽を摘み裏切りを選んだ事実は変わらない。
──俺は、手を汚し続けるしかないのだろうか。

妻と再会するゲゲ郎の奥で、血まみれで気を失っている水木のカットが、私にはやけに印象に残っている。

エンドロールの後、村での記憶を失った水木は、墓から赤子が生まれる瞬間を目撃する。
果たして水木は『墓場鬼太郎』での行動と同じく、自分に縋ってくる幼い手を振り払い、投げ捨ててしまうのか。もはや記憶の中に存在しない村の地下で、自分を慕った少女にしたように。

──水木はほんのすこしの逡巡の後、赤子を抱きしめ映画は終わる。


アニメシリーズを見たことがなく、墓場鬼太郎しか知らない私には、このシーンの水木は、映画で沙代やゲゲ郎との冒険を経たことでようやく、赤子を投げ捨てることのない運命を選び取ることができたように見えた。

そして現代。生まれた瞬間に暴力を知るはずだった、しかし代わりに抱擁を得た子ども・鬼太郎は、対照的とも言える立場の子どもである時弥を弔ったのだった。

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ダークでシュールな『墓場鬼太郎』に対して、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』では、鬼太郎は人間を守るために戦っていると聞く。
映画のタイトルが『ゲゲゲの謎』であるように、この映画は幽霊族の子どもがいちばん最初に知るものが、暴力から抱擁へと変化して、そして時弥や誰かを救う”ゲゲゲ”の物語の主人公に育つための第0話だったのではないか。もしそうならば、彼を愛するパパたちの戦いや葛藤を見たひとりとしてうれしくおもう。

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というわけで、もっと┌(┌^o^)┐←こんなかんじで映画館から出てくる予定だったのになんか全然そんな感じにならず真面目っぽい感想文を書いてしまいました! あーあ。

おわり


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