手記20240613

 わたしは人間を悪いものだと認識しているわりには他人と交流するのを好んでいると思う。自分も一個の人間なので他の人間を避けたところで特段の益が無いということなのかもしれない。あるいは人は程度の差があれど基本的には他人を求めるものであり、わたしも例外でないということでもあるだろう。
 友人の類がいたことは無いものの、何かの機会で知り合った人とおしゃべりをしたり一緒に何かをしたりするのは多くの場合楽しくありがたいものである。妻の存在も大きい。妻は多方面でわたしの面倒を見てくれる人でもありわたしはそのことに無自覚になりがちなので気をつけなければならない。わたしにはひとからしてもらったことへの報恩や感謝といった発想が希薄で、妻だけでなくわたしのことを知っている人の多くはわたしから迷惑を被っているだろうと想像している。それを許すくらいなのでわたしの周囲の人々はみな強力かつ寛容な人格者であるように見える。もしかしたらわたしを好きでいられるくらい、つまり非現実的なほど強力かつ寛容な人も世の中にはいるのかもしれない。少なくとも今までそんな人に会ったことは無い。
 もしわたしが人間社会の中で生存することに肯定的な意味を見出すとしたら、わたしは何よりも人格者でありたいと願うのではないだろうか。人格者という評価は恣意的に用いられるので何がどうだったら人格者であるという基準は実質的に存在しないのだと思うが、わたしの感じる「こういう人が人格者である」という曖昧な像や特徴はあり、それらはわたしが妻や今まで会う機会のあった多くの人々との交流の中で発生したわたしの情動に端を発している。わたしは彼らにほんとうに助けられ生かされてきている。わたしは基本的にはごく原始的な情動に動かされており、情動にはたとえば芸術や学問に触れた際に発生するようなより高次であるとみなされる可能性のある種類のものもあるが、わたしの持つ情動に限って言えばそういうものではない。わたしはおそらくある時点でわたしの原始的な情動にとって快適な言動を取った人、言い換えればなんとなく印象の良い人を人格者であるとみなしている。もしかしたらわたしもわたしと同じくらい原始的な情動やなんとなくの印象に従って物事を判断する人にとっては時に偶然に人格者であることができるのかもしれない。そしてそこに何の価値があるのかは不明である。
 情動や印象に従って生きるのは良い選択ではない。その選択はしばしば野蛮で暴力的であり、多くは理性や知性や論理を動員して効率的に弱者を搾取したり蹂躙したりするからだ。わたしはその悪を感じながら、他の生き方を知らないので悪を再生産して生きている。

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詩題『歓迎』

記憶に無い
ぜんぜん憶えていない
きみのことも
ぼく自身のことも
ぼくは気がついたらここにいて
統制と訓練にまみれていたのだ

ぼくの生というものは無かった
すべてただ与えられ
取り上げられるだけだった
ぼくはいまここにいない
ここにいるのは
ぼくの顔をした彼らだ

ぼくは何も負えない
彼らに負わされるもののほかには
助けてほしい
生きさせてほしい
しかしそれを口に出せない
それは禁じられているからだ

ものごとがすべて終わればいい
生かされているぼくも
ひややかなきみも
偉大なる彼らも
みんなはじめから無かった
そうなればいい

無は空虚だろう
しかし清潔で静かだろう
いまよりずっといい
だれもそれを知らなくても
ずっといい
無ならば歓迎だ!

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