手記20240615

 わたしはアトピー性皮膚炎と喘息と鼻炎という複数のアレルギー性の病気を持っている。今日は午前中に内科に行って診察をしていただいた。症状に大きな変化は無くいつもどおり現在の薬の処方が継続されることになった。
 病院で興味を引かれることの一つは待合室の様子である。自分の診察の順番を待っている人々がおおむねいつも長い待ち時間にいらいらしていたり諦めていたりするのを感じるとなんだか自分もいらいらしていたり諦めたりしているような気がしてくるから不思議である。感情が伝染する、という話はよく聞くものの、わたしはその仕組みなどについて何か理解しているわけではないので不思議に感じるのだ。医師や看護師や検査技師、受付や会計などの関係者の方々もそういった患者の感情を察知しているだろうし、またその矛先を自分たちへ向けられることもあるだろうから疲れるだろうと想像している。こういう時にはわたしは感情が伝染しなければいいのに、と思う。世の中には喜びや愛情のような陽性の感情も存在するとはいえ、陽性の感情がいつも良い結果に結びつくわけでもなければ陽性であれ陰性であれ感情が真理を明らかにすることも無いのだから。ああだったらいいのに、こうなったらどうしよう、といった「無い話」ばかりで自分の頭が満たされている。わたしの内面にあるのは空想と苦痛と恐怖だけだ。
 わたしは長く生きるだけ生きてはいてもいまだにきわめて原始的な段階に留まっている人間であり、自身の思考や言動のすべてを感情にまかせている。それが楽だしそれでも生きてゆくことだけはできてしまうし、何より、それしか知らないからだ。良いものとはわたしにとって快適なものであり悪いものとはわたしにとって不快なものだ。わたしは真や善や美を追求しない。それらの追求には理性が必要で、わたしはその理性を持ち合わせない。わたしがするのは自分が感情に動かされているにもかかわらずその事実を隠蔽して、あたかも己が理性に従って真や善や美を追求しているかのように欺瞞することである。年齢を重ね経験を積むだけでは人間は賢くならないということの典型的な例であるかと思う。
 いくつになっても勉強しなければ、というのはたぶんこういうことなのだ。自身の奉じる価値や信念を疑いもせず突き詰めていってもそのうち行き詰まるのが普通の人間だが、わたしくらい愚かだとどれほどの矛盾や乖離を目の当たりにしても自身の価値観や信念を唯一絶対に正しいものだと信じていられてしまう。それはしばしば誤った正義と結びつき、他者を害しながらそのことを正当化する。
 真も善も美もやさしくはなく、それらは常にわたしの快不快など気にせずに存在する。つまり価値なるものはわたしに対して冷徹である。わたしに対して冷徹な存在はわたしのほうへ近づいてきてはくれないので、わたしは学び考えることを通してそれらに近づく必要がある。そうすればこのひどい退屈が多少はましになるかもしれない。

------------------------------------------------------

詩題『運河の星』

運河には無数の星が沈んでいる
殺され食されたものたちの
あるいは所有され使役されたものたちの
悲哀と怨嗟が星になったのだ
悲哀と怨嗟が解決しないので天上でなく運河に沈んでいる
生きているわれわれには復讐を与える価値がないので
ただ沈んでいるのだ

いのちがだらだらと続く
もうやめにすればいいのに

刑務所から見れば社会は天国だ
別の社会から見れば社会は地獄だ
自分のいるところのことはよくわからない
失うか追い出されるかしてからやっとありがたがる
運河にはそういう無知の類も堆積しているだろう
やがて船が通れなくなって
そのころには
空がとてもきたないので飛行機が飛ばず
地上にはあらそいを起こすものが残っていないだろう

論理を知ることができたらなあ
理知を知ることができたらなあ

いのちが重要だったころのことを
忘れてしまった
いまでは思い出すだけだ
でもたしかにそれが真実だったときがあったのだ

船に乗って運河へ出よう
なにも運ばずに

船が壊れたらとびこんで泳ぐ
つかれて泳げなくなったら
沈んで星になる
いのちは悲哀と怨嗟にかわる

------------------------------------------------------