手記20240617

 今日もおおむねずっと寝ていてずっと悪夢を見ていた。昨日から始まった新しいバイトは業務量に激しい波があり、多忙な時はとても多忙で特に出来事が無い時にはほとんどずっと座っているだけという感じらしい。そして何かしようと思えば実質的に無限にするべきことが増えてゆくという性質もあると聞いた。慣れてきたらその時の状況に応じて何が必要で何を後回しにするべきかの判断をし、必要なことを実行することを求められるだろう。中年になって新しい仕事を始めること自体は珍しくもないのかもしれないが、そういう人の多くはそれまで培ってきた実績などがある上でさらなる収入や地位の安定や上昇、あるいは自身の考えの実現などを目指すという、すでに十分以上のところからもっと向上することを志向しているのだと思う。わたしはそうではなくなんとか生存できるだけの収入を得るためにたまたま採用された勤務先に雇用されて労働する。
 わたしは現在の収入や地位が自分にとって十分でないだろうと感じてはいるものの、自分にとってどれだけの収入や地位が十分なのか理解していない。いわゆる世間やあるいはその世間の誰かから「お前の収入や地位は十分でない」との評価を受けるところは容易に想像できる一方で、自分が「わたしの収入や地位は十分である」と感じているところは想像しにくい。わたしはいつも自分の所有していない何かや他者がわたしに所有を要求するだろう何かを想定して、それらを自分が所有していない現状を嘆いている。そして仮に何かを所有した際には別の何かを想定しそれを所有していない現実を嘆くのだと思う。つまりわたしは死ぬまで嘆き続ける。
 こう考えると、では己の欲するところを理解しそれを得て、得たものに感謝し満足することができればよいのではないかという問いが比較的自然に思い浮かぶと思う。だがこの問いに答えるのはあまり簡単でない。第一に己の欲するところを理解してそれを得て得たものに感謝し満足しているという状態自体はよいものだとして、その状態にある者とそうでない者がいるという場合には公平性に欠ける事態である可能性がある。わたしがおいしいものを食べて喜んでいる時にわたしに食べられている動物や植物のほうは喜んでいない場合などがこれにあたる。第二にそういう状態は一種の幸福を想定していることが考えられるが幸福の価値自体には議論の余地がある。なぜわたしが幸福である必要があるのかという疑問に対してあまり有効な返答が見つからない。第三にそういったある意味で幸福な状態に到達することができたとしてそれで十分なのかがわからない。幸福は唯一絶対の価値ではない。たとえば真理や正義といった価値があるが、それらはわたしの幸福とは両立しないことも多い。実際わたしは喫煙の習慣を持っており、煙草代がわたしの家の経済に打撃を与えるとともに煙草によって引き起こされる健康被害が健康保険などに害を及ぼしている。おそらく他にも上述したような幸福な状態を相対化しその意味や価値を問う観点は存在すると思うが今わたしに思いつくのは上の三つである。
 簡単なことはそうそう無い。何かが絶対的であったり当たり前であったり簡単であったりすると思われる時、注意して考えれば本当はそうではないことが見えるという事態は珍しくないと思う。

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詩題『自由の鐘』

自由の鐘が鳴らなくなって久しい
それはわれわれが自由だからか
あるいは鐘を鳴らす自由すら持たないからか
それとも鐘を鳴らす自由すら持たないのに
われわれは自由だと思い込んでいるからか

自由の鐘のある広場には
市場があった
いまは市場に広場がある

鐘を鋳つぶして
金に変えてしまえという声がある

自由の鐘は沈黙している

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