手記20240609

 今日も寝すぎた。わたしはいつも寝すぎている。特に疲れを感じているのでもないし疲れるようなこともしていないので、おそらく単に生活するために必要な睡眠時間が他の多くの人よりも長いのだと想像している。長く眠りすぎるだけでなくわたしは食べるのも遅く歩くのも遅く日常の買い物に出かけてから自宅へ帰ってくるのも遅く、およそすべての作業に時間を要する。日常生活の維持だけでほとんどの時間を使い果たすことになり、生活のために生活しているというよくわからない状況が常態化している。ろくに仕事をしていない身とはいえなかなか不便である。
 怠惰の塊みたいな精神性が社会に適合しないのはともかく、長すぎる睡眠時間をはじめとする時間効率の悪さという物理的な側面でも社会に適合しないのでわたしは心身両面で社会に適合しない。社会のほうもわたしに適合してほしいと思っていないだろうから双方良しだ。
 仮に社会に適合することができたらしたかったか、と聞かれることがあったら、そんな気もするしそうでもないとも思う、と答えるだろう。もし社会に適合していたら今よりも楽だったり幸せだったりしていたかもしれないし、あるいは適合したなりの苦痛や悩みの中でのたうちまわっていたのかもしれない。現実のように社会に適合しなかったとしても、もしかしたら楽な道や幸せな道の開かれた可能性もあったのかもしれない。あるいはそんな道は無かったのかもしれない。
 仮の話をしだしたらきりが無い。仮の話をしないのなら現実の話もできない。何をどこまで想定するのが正しく、どんな想定がどんな意味で誤っているのか。空想は楽しい。しかし現実にも心を惹かれる。わたしは楽しんだり心を惹かれたりしているうちに何も持たない中年になった。

 今日も少しだけ外出した。昨日ほど暑いとは感じなかったが快適な感じもしなかった。歩きスマホの他人が邪魔だの公園での違法行為が目につくだのスーパーの野菜が高くて買えないだのいろいろと感じるところはあり、そういった事項で頭をいっぱいにしている自分に嫌気が差した。いつもいつもそうだ。他にもっと考えることがあるだろう。なんでいつも大事なことを忘れるんだ?ひょっとして大事なことなんか初めから知らないんじゃないか?

 そう、わたしは大事なことを何も知らない。何かについての何らかの要素がどうにかなっていればその何かが大事あるいは大事でないと言えるという話がほんとうなのかも知らず、だから大事なこととそうでないことの区別もできない。大事なことを選択できないので頭の中は常に快不快の感覚に歪められた情報で満たされており、わたしに関するすべては運と状況と習慣に支配されている。わたしという人間が存在すると思っているのはわたしだけで、実際にはわたしは存在しないのかもしれない。