手記20240610

 わたしの座っている窓際から見えるベランダではミニトマトや朝顔やそのほかわたしの知らない植物たちが鉢の中に根を張りさまざまの高さに茎を伸ばし葉を広げ花を咲かそうとしている。育てているのはわたしの妻だ。わたしには植物のことはわからないものの、植物が身近にあるということにはなんとなく助けられているようにも感じる。植物の姿を見て気分が穏やかになったり落ち着いたりするという体験は市場経済のにおいがきわめて薄いので貴重であると認識しながらも、その体験は賃貸住宅に住むという自身を市場化する行為の一部であることを忘れてしまってはならないとも思う。すべては市場である。わたしは購買力のとても低い消費者であり労働市場における低質な人的資源であり、わたしの生活や人生は市場の低層における経済活動である。つまり何もかもがあまり面白そうに思われない。いくらつまらなく感じても社会という名前で呼ばれることもある市場から外に出ることはできない。イーグルズ『ホテル・カリフォルニア』の最後のほうの一節を思い出す。「あなたは受け入れるさだめなのです。いつでもチェックアウトをできますが、ここを出てゆくことはかないません」(英語も日本語も不得意なので誤っていたらすみません)。
 わたしの妻がベランダで植物を育てるように、わたしも何か市場のにおいの薄いことをしたいと時々思うことがある。市場の中で何かをする以上はどれだけ薄まっていても市場のにおいがついてしまうことは仕方無いとして、それをなるべく希釈して、少なくともわたし自身の感覚では気づかないくらいにできないだろうか。たとえばどれほど原始的で稚拙で陳腐でもかまわないから何か創作してみることだ。わたしには好きな詩も小説も映画も音楽も絵画もある。それらのように市場で成功を収めたり他の意味で高い評価を得たりして反響を受けるものでない、しかし自分に対しては率直で誠実であるようなものを、わたしも作ってみたいと思う。

 創作を試みたことが無いわけではない。しかし何かを完成させたことも無い。わたしの作ろうとしたものはいずれもとてもありきたりで、またあまりに直截にわたしの欲望や経験を反映したものだった。作っている途中で立ち現れてくる自分の欲望や経験に恥ずかしくなったり、自分の発想の貧しさに失望したり、作ろうとしたものと頭の中にある理想との差異に耐えられなかったりして、いつも途中で投げ出してしまう。
 わたしが現在何も持たない中年であるのは今まで物事を継続することを怠ったことだけが原因ではないと思っている。無能なわたしが仮に何かを長く続けたところで得られるものは無かっただろう。何をしても何にもならないと思うのならしたいことをしたいようにすればいい。幸運と呼ばれる要素も持たず、偶然に何か良い出来事が訪れることも無いと予想しているのならばなおさらだ。己の内なる声を聴きそれを発するように、また何かを作りはじめてみよう。

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詩題『小さな祈り』

 さみしい人の内心に
 愛と夢がありますように
 
 一握の善と勇と知が
 行き渡り余りますように

 人と人のはざまの病に
 安らかな眠りがありますように

 生まれては死んでゆくものの
 願いがかないますように

 死してなお続くどの道も
 楽しいものでありますように

 いまだ知られぬことがらが
 いずれ知られますように
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